木村政彦
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桁外れのパワー

木村は師の牛島と共に、本格的にウエイトトレーニングを行い抜群の筋量とパワーを誇った[注釈 9]。そのトレーニング方法は、単に高重量を扱うだけではなく、例えば100 kgのベンチプレスを1時間1セットで何度も繰り返す、仕上げに腕立て伏せを1000回行うなどといった非常に激しいものだった[注釈 10]。その鍛え抜いたパワーは、障子の桟の両端を持って潰すことができ、太いの棒を簡単に曲げたという。また、夏の暑い日、師匠の牛島が木村に団扇で扇いでくれと言うと、木村はその場にあったを持ち上げ、それを扇のように仰いで牛島を驚かせた。そして両腕を伸ばした状態で肩から手首に掛けて100 kgのバーベルを転がすこともできたという[注釈 11]。また、都電に乗った際、悪戯で吊革のプラスチック製の丸い輪を五指で鷲掴みにし、端から順に割っていくことがあった[1]。その他に乗り遅れた弟子のために走り始めた都電の後ろにある牽引用の取っ手を掴んで引っ張り、電車を停車位置に戻してしまったこともある。弟子たちはそれを見て唖然としたという[1]
柔道スタイルと得意技

立技の得意技は強烈な大外刈[注釈 12]、寝技ではあらゆる体勢から取ることができる腕緘であった。講道館での出稽古ではあまりに失神者が続出するので木村の大外刈は禁じられ、後には脱臼者が続出するという理由で腕緘も禁じられたという。木村の大外刈は、自分の踵で相手のふくらはぎを打つように掛けるもので、一種の打撃技蹴り技の風体をなしていた。170 cmで85 kgの体格は当時としても柔道家としては大きな方ではなかったが、長身選手の得意技とされる大外刈を実戦的な技として駆使した。また、高専柔道で培った寝技も大きな武器としており、絞め技抑込技も得意としていた[1]
負けたら腹を切る

木村の精神力の強さには定評があるが、その最たるものとして「負けたら腹を切る」がある。試合前夜には短刀切腹の練習をしてから試合に臨んだとされ、決死の覚悟で勝負に挑んだという。最終的に15年間無敗でプロに転向したため、切腹は免れた。
プロ柔道家時代
牛島が国際柔道協会旗揚げ

1950年2月、内定していた警視庁の柔道師範の話を断り、師匠の牛島辰熊が旗揚げした国際柔道協会いわゆるプロ柔道へ山口利夫遠藤幸吉らと共に参加する。4月16日には後楽園でプロ柔道としての初試合を行い、トーナメントを勝ち抜き優勝する。プロでも木村は1度として敗れず、連勝を重ねていった。

その後プロ柔道は地方巡業に出るが、客足は次第に衰え、またスポンサーの経営不振も重なり、給料も未払いの状態が続いた。時を同じくし、妻が肺病に侵されたため、治療費を稼ぐ必要に迫られた木村は、告訴される事も承知で国際プロ柔道協会を脱退し、夜逃げ同然にハワイへと渡航した。これは現地の日系実業家によるハワイ諸島での柔道巡業の要請に応じてのものであり、高額の報酬が目的であった。なお、協会の主力選手であった坂部保幸と山口利夫が木村に同調し脱退したため、国際プロ柔道協会はすぐ後に消滅している。ハワイでの巡業では、腕自慢の飛び入りを相手にしたり、10人掛けといったものであったが、現地ではこの興行が人気を博した。そして契約の3か月任期満了の近く、この人気に目をつけたプロレスプロモーターに誘われ、木村と山口はプロレスラーに転身した。
エリオ・グレイシーとの死闘袈裟固めでエリオの首を締め付ける木村。

1951年サンパウロの新聞社の招待で、山口利夫、加藤幸夫とともにブラジルへ渡る。プロレス興行と並行して現地で柔道指導をし、昇段審査も行った。

同年9月23日、加藤幸夫が現地の柔術家エリオ・グレイシーヒクソン・グレイシーホイス・グレイシーの父)に試合を挑まれ、絞め落とされ敗北する。エリオは兄のカーロス・グレイシー前田光世より受け継いだ柔道に独自の改良を加え寝技に特化させたブラジリアン柔術の使い手であった。エリオは加藤だけではなく、木村がブラジルに来る前から日系人柔道家たちを次々と破り、ブラジル格闘技界の雄となっていた。その結果を受けて、木村は10月23日にリオデジャネイロマラカナン・スタジアムでエリオと対戦した。ルールは以下。

投技での一本勝ちは無し。ポイント無し。抑え込み30秒の一本も無し。決着は「参った」(タップ)か絞め落とすこと。

木村はエリオの細身の体格を見て「3分持てばあちらの勝ちでもよい」といいのけるほどの余裕を持って試合に臨んでいた。エリオも木村との圧倒的な実力差を承知しており、兄のカーロスも弟に試合前に関節技が極まったらすぐにタップするようにと念を押して約束させ、棺桶まで用意したという決死の覚悟で挑んだ。木村は2Rで得意の大外刈から腕緘に極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)。しかしエリオはカーロスとの約束を無視して強靭な精神力でギブアップせず、木村も骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。会場が騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングに駆け上がりギブアップをしないエリオの代わりに木村の体をタップ。代理のタップのため審判と揉めるも、既に決着は付いていると双方認めたため木村の一本勝ちで決着となった。また、木村の柔道の試合の映像は残っていないので木村の真剣勝負で映像が残っているのはこの試合が唯一である[4]。後年に木村はエリオの事を「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家としての態度を絶賛している。なお、腕緘がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来である。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。

激闘から半世紀の歳月が流れた1999年の秋、エリオは『PRIDE GRANDPRIX 2000 開幕戦』に出場する息子ホイスと共に記者会見に出席するため初来日を果たした。その際、講道館を訪問して資料室を見学し、既に故人となっていた木村の写真を見て目に涙を浮かべ、「日本に来られて本当に良かった」と語ったという[5]2009年、エリオは95歳でその生涯を終えたが、晩年には「私はただ一度、柔術の試合で敗れたことがある。その相手は日本の偉大なる柔道家・木村政彦だ。彼との戦いは私にとって生涯忘れられぬ屈辱であり、同時に誇りでもある」と語っている。グレイシー博物館には、木村と戦った時に着た道衣が飾られている[6]
プロレスラーへの本格的転身

木村 政彦
プロフィール
リングネーム木村 政彦
マサ・キムラ
(Masa Kimura)
[7]
本名木村 政彦
ニックネーム柔道の鬼[8]
身長172cm[8]
体重92kg[8]
誕生日 (1917-09-10) 1917年9月10日[7]
死亡日 (1993-04-18) 1993年4月18日(75歳没)[7]
出身地 日本
熊本県飽託郡川尻町
スポーツ歴柔道
デビュー1950年[8]
引退1957年[8]
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帰国した木村はプロレスラーとして力道山タッグを組み、1954年2月19日にはシャープ兄弟と全国を14連戦した[注釈 13]。試合は日本テレビNHKによって初めてテレビ中継された。しかし、このシャープ兄弟とのタッグ戦において、木村は毎回フォールを取られるなど引き立て役とされたことに不満を募らせ、朝日新聞紙上で「(力道山相手にも)真剣勝負なら負けない」と発言した。この記事に力道山は激怒して結果としてプロレス日本一をかけ「昭和の巌流島」と称して両者が戦うこととなった。だが、この戦いで木村政彦は謎のKO負けとなり一線を退くこととなる。


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