木更津市
[Wikipedia|▼Menu]
東京都都心から南東に30 - 40 km圏内である。都市雇用圏における東京都市圏東京圏)の範囲に含まれる。ただし、東京都の都心と木更津市との間には東京湾を挟むため、移動距離はこれよりも長くなる。東京湾北側を周回した場合の移動距離は70 - 80 km程度であり、東京湾アクアラインを利用した場合は40 - 50 km程度である[注 1][2][3]

市域は東西に長く広がっており、市の西部は関東平野の平地、東部は木更津台地[注 2]台地や上総丘陵(房総丘陵)の丘陵地帯と地形の性質が異なる。

市中西部(木更津地区、清川地区)は東京湾に面しており、東京湾へ流れ込む複数の河川により沖積平野が形成する。また、東京湾臨海地区は木更津港南岸から君津市方面に掛けて工業用埋立地となっている。市北部(岩根地区、金田地区、中郷地区)では泥層を主とする田園地帯が広がり、木更津駅から千葉方面に向かって走る列車の車窓からはハス田が確認できる。市南部(波岡地区、鎌足地区)を中心に洪積台地が形成され、住宅地として整備されている。特に鎌足地区ではかずさアカデミアパーク構想における研究開発拠点としての整備が行われている。市東部(富来田地区)は小櫃川流域では田園地帯を形成し、上総丘陵の森林が広がっている。

市の主な河川として、県内では利根川に次いで2番目に長く総延長88 kmの小櫃川がある。小櫃川は君津市、袖ケ浦市、木更津市の3市を貫流し、市内では東部から北部にかけて流れ下り東京湾へと注いでいる。また、小櫃川河口付近では1,400 ha程の盤洲干潟が形成されている。市内には特に高い山が無く、最も高い場所でも 標高200 m程度である。
市域


東西 : 21.98 km[4]

南北 : 14.54 km

自然


海 : 東京湾盤洲干潟

河川 : 小櫃川矢那川、烏田川、畑沢川

湖沼 : 矢那川ダム、小櫃堰

丘陵 : 上総丘陵(房総丘陵


盤洲干潟

小櫃堰(小櫃川

矢那川

浸透実験池(小櫃川河口)

気候

木更津(2006年 - 2020年)の気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
最高気温記録 °C (°F)19.3
(66.7)23.3
(73.9)25.1
(77.2)26.5
(79.7)32.7
(90.9)34.7
(94.5)37.2
(99)37.6
(99.7)35.3
(95.5)31.6
(88.9)26.4
(79.5)23.5
(74.3)37.6
(99.7)
平均最高気温 °C (°F)9.6
(49.3)10.4
(50.7)14.0
(57.2)18.6
(65.5)23.5
(74.3)25.7
(78.3)29.6
(85.3)31.3
(88.3)27.5
(81.5)21.9
(71.4)16.8
(62.2)12.1
(53.8)20.1
(68.2)
日平均気温 °C (°F)5.6
(42.1)6.2
(43.2)9.5
(49.1)13.8
(56.8)18.6
(65.5)21.4
(70.5)25.3
(77.5)26.8
(80.2)23.2
(73.8)18.0
(64.4)12.8
(55)8.1
(46.6)15.8
(60.4)
平均最低気温 °C (°F)1.6
(34.9)2.2
(36)5.3
(41.5)9.5
(49.1)14.6
(58.3)18.1
(64.6)22.3
(72.1)23.7
(74.7)20.1
(68.2)14.8
(58.6)9.0
(48.2)4.1
(39.4)12.1
(53.8)
最低気温記録 °C (°F)?5.4
(22.3)?3.8
(25.2)?1.2
(29.8)0.7
(33.3)7.1
(44.8)10.2
(50.4)15.1
(59.2)16.8
(62.2)12.1
(53.8)6.1
(43)0.4
(32.7)?2.2
(28)?5.4
(22.3)
降水量 mm (inch)66.2
(2.606)82.0
(3.228)134.0
(5.276)133.5
(5.256)140.9
(5.547)181.7
(7.154)138.0
(5.433)97.2
(3.827)229.2
(9.024)261.7
(10.303)111.7
(4.398)93.6
(3.685)1,650.7
(64.988)
平均降水日数 (?1.0 mm)4.97.410.09.39.011.49.87.412.111.59.56.5108.6
平均月間日照時間185.5149.5174.5177.7197.5135.0165.2207.1132.8124.4139.1169.31,960.2
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[5]

隣接している自治体

北 :
袖ケ浦市

東 : 市原市

南 : 君津市

西 : 川崎市神奈川県)- 直接隣接はしていないが、東京湾アクアライン経由で海上(東京湾)を隔て隣接している扱いとなる。

歴史
地名の由来

木更津という地名の由来については、如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命(ヤマトタケル)伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているという説が通説となっている(下記の伝承の項参照)。
木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年文和2年・正平8年)に記された文献で木佐良津と記されている。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の岩根地区高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規朱印状には、内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川ともに岩根地区)の名前はあるものの木佐良津の名前は無いため、当時は租税を取るほどではない小さな漁港に近かったと推測されている。
古代 - 中世真里谷城本丸跡(千畳敷)

古事記』や『日本書紀』によると、倭建命が東征の折にこの地方に立ち寄ったと記されており、この事象が元となった地名が市内随所に見られる。歴史的に考察するとこの地方には倭王権に敵対する勢力が存在していた事を示しているという説がある。事実、小櫃川流域を中心とする地域には支配階級にあたる豪族(国造)が存在していたとされ、それを証明する古墳群が形成されている。奈良時代の文献には小櫃川流域一帯(現在の木更津市、袖ケ浦市、君津市の一部に相当)が「馬来田国」と記されており、この地方を馬来田国造という豪族が支配していたと記録されている。1950年(昭和25年)市内長須賀の金鈴塚古墳(二子塚古墳)の発掘調査が行われる。この古墳は6世紀後半頃に造られたものとされ、馬来田国造の一族のものとされる。この古墳からは大刀や銅容器・武具・古墳名称の元となる純金製の5つの金鈴などが出土されている。

1456年(康正2年)頃上総武田氏の祖である武田信長上総守護代となり、上総地方進出の足がかりとして真里谷城を築城する。以降、真里谷城は庁南城 (千葉県長生郡長南町)と並び上総武田氏の居城として繁栄する。武田信長の子孫の内、真里谷城を拠点とするものは真里谷氏を名乗り戦国大名化する。真里谷氏は一族の内紛と第1次国府台合戦の末に勢力が衰退し、上総地方の支配者も真里谷氏から里見氏北条氏へと移り変わる。1590年天正18年)真里谷城は豊臣秀吉小田原征伐で侵攻された後、廃城になる。現在、真里谷城跡はキャンプ場(市立少年自然の家)として利用されている。
近世

1614年(慶長19年)大坂冬の陣に木更津の水夫24名が徳川幕府方について戦功を上げる。その水夫の功により幕府は、江戸 - 木更津間での渡船営業権や江戸の日本橋に「木更津河岸」を拝領地として与える等の特権を与える。ただし、その根拠とされている現存文書は史実と矛盾する内容が含まれており定かではない[要検証ノート]が、1615年(元和年間)以後に幕府が木更津に代官を置いた記録は確認できるため、これに近い事実はあったと考えられている。幕府は軍事上の目的から主要河川にを架けることを禁止し陸路には至る所に関所を設ける政策を採っていたため、この時代の流通手段は水運が主流になる(河岸を参照)この特権により木更津は上総・安房 - 江戸間との海上輸送を取り扱う流通拠点として急激に発展する。運送には喫水が浅く海川両用の五大力船が用いられた。木更津から江戸にやってくる五大力船は通称木更津船と呼ばれ、歌川広重の浮世絵にも描かれている。歌舞伎の演目『与話情浮名横櫛』は江戸期に木更津で実際に起きた事件がモチーフとなっており、当時の港町木更津の様子を垣間見ることができる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:186 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef