1984年12月18日、赤坂の日商岩井ビルにあるフランス料理屋に竹下、梶山静六、金丸信、小渕恵三、羽田孜、小沢一郎、遠藤要の7人が集まり、次期自民党総裁選で竹下擁立を図る計画の話し合いがもたれた[4][5]。
1985年2月7日、竹下を頭とする派中派の「創政会」が結成された[6]。当初は勉強会だという表向きの説明を信じて容認していた田中は派中派と知るや憤慨してこれを抑えつけたが、やみくもな飲酒がたたり[7][8]、同年2月27日、脳梗塞で倒れた。
1987年7月4日、木曜クラブから113人が参加して、経世会の結成大会が行われた[6][9]。二階堂系だった田村グループや、創政会結成を痛烈に批判し派内の一本化を目指していた奥田敬和らも経世会の旗揚げに参加した。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ、(3)中立系の3つのグループに分裂した。二階堂会長、江ア真澄、小坂徳三郎、山下元利ら木曜クラブの残留組は「二階堂グループ」と呼ばれることとなった[10]。分裂時の各グループの内訳は下記のとおり[11]。
派閥議員数議員名
竹下派113(省略)
二階堂グループ15江ア真澄、久野忠治、二階堂進、松野幸泰、山下元利、稲村利幸、小坂徳三郎、田村良平、
林義郎、有馬元治、保岡興治、田中直紀、井上吉夫、川原新次郎、吉川芳男
中立系13小沢辰男、渡辺紘三、戸井田三郎、後藤田正晴、今枝敬雄、木村睦男、河本嘉久蔵、世耕政隆、
大鷹淑子、森下泰、長谷川信、浦田勝、海江田鶴造
二階堂グループは引き続き独立勢力を維持したが、少人数で閣僚ポストの獲得もままならず、政界への影響力は低下した。なお、中立系も内閣官房長官を務めていた後藤田を除き総裁選直前に竹下支持に動いている[12]。
1989年6月8日、政府・自民党首脳会議での閣僚・党役員の派閥離脱方針に沿った措置として、二階堂(副総裁経験者として自民党最高顧問)と、北海道・沖縄開発庁長官として入閣した井上吉夫は二階堂グループを一定期間のみ離脱した。後任の会長には江崎が就任した[13]。
1990年2月18日、第39回衆議院議員総選挙が行われる。このときすでに稲村利幸は渡辺派に移っていた[14][15]。選挙後、田中角栄および、稲村を除く二階堂グループ(木曜クラブ)の議員14人が辿った道は以下のとおり。
氏名2月18日2月19日2月26日3月8日
衆田中角栄不出馬
衆江ア真澄
衆久野忠治不出馬
衆二階堂進
衆松野幸泰不出馬
衆山下元利
衆小坂徳三郎不出馬
衆田村良平不出馬
衆林義郎宮沢派に入会[16]
衆有馬元治落選
衆保岡興治落選
衆田中直紀落選
参井上吉夫竹下派に入会[17]
参川原新次郎宮沢派入りが内定[15]
参吉川芳男宮沢派入りが内定[15]
同年2月26日、江崎、山下、二階堂は協議し、二階堂グループは事実上解散状態にあるとの認識で一致した[17]。4月10日、『国会便覧』が発行される。この時点で二階堂は無派閥となり、木曜クラブの所属議員は江崎と山下の2人だけになった[14]。こうして田中政治は終焉を告げた。
脚注
注釈^ 集結した主な議員は以下のとおり。橋本登美三郎、二階堂進、斎藤昇、西村英一、郡祐一、前田佳都男、上田稔、梶木又三、徳永正利、寺本広作、永野鎮雄、橘直治、白井勇、吉武恵市、木村睦男、鬼丸勝之、岡本悟、川野辺静、細川護煕、石井一、長谷川仁、大松博文、山本利寿、一龍齋貞鳳、世耕政隆、渡部恒三、奥田敬和、斉藤滋与史、小沢辰男、亀岡高夫、足立篤郎、高橋英吉、山下春江、安西愛子、小沢一郎など。
出典^ 早坂 2001, pp. 216?217.
^ 伊藤 1982, p. 78.
^ “ ⇒楠田實資料(佐藤栄作官邸文書):解題”. ジャパン デジタル アーカイブズ センター. 2020年8月2日閲覧。
^ マスコミ研究会 1985, pp. 164?165.
^ 早坂 1991, pp. 38?39.
^ a b 安藤俊裕 (2011年8月28日). “田中角栄に反旗、竹下派旗揚げ 「政界のドン」金丸信(5)”