木口小平
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これは本人の精神力というよりも、死後硬直が原因であると指摘されている[2]
シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ

死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手の噂話は、早くに内地に伝えられた。そのラッパ手は誰かということが話題となり、軍は調査の結果そのラッパ手は実在するとし、当初は「白神源次郎」であると、誤って別人の名を発表した。岡山県浅口郡船穂村(後の倉敷市)出身の歩兵一等卒・白神源次郎の武勇は国民に広く伝えられ、また海外にも発信された。教科書にも採用され、7年後に訂正されるまで記載された。

日清戦争後に、第5師団司令部は「諸調査ノ結果彼ノ喇叭手ハ白神ニ非ズシテ木口小平ナルコト判明セリ」と発表しなおした。白神は入営当時21連隊のラッパ手であったが予備役召集の時点ではラッパ手ではなかった。木口はラッパ手であり白神と同日の戦死であった。なお白神の死因が戦闘中の溺死であったことも「不都合」とされた。師団発表当時はまったく無名の木口に名前が置き換わったことに国民は困惑し、すでに有名になっていた白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった。

白神源次郎の記念碑は1906年(明治39年)に立てられたが、木口小平の記念碑がたてられたのは1914年(大正3年)になってからである。義務教育の無償化と1903年(明治36年)に始まった国定教科書制度で、木口の名前が国民全体に徐々に浸透し、木口の顕彰も盛んになった。故郷である岡山県川上郡成羽町(現在の高梁市成羽)に「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた。さらに、1932年(昭和7年)になると、歩兵第21連隊が軍人勅諭下賜50周年事業として銅像を造った。岡山招魂社に収められた写真の中から、木口らしい写真を選び出して銅像の元にしたが、これは木口の顔ではないとの異論もあった。このころ成羽町の碑の周りは「小平園」として整備された。21連隊の銅像は1950年(昭和25年)に濱田護國神社に移転されている。

1902年(明治35年)に発売され、後年正露丸と改称される胃腸薬の「忠勇征露丸」に描かれているラッパのマークは木口の話を参考にした、との逸話が在るが、これは年代的には白神の話ということになる。
尋常小学校修身書より
キグチコヘイ ハ テキ ノ

タマ ニ アタリマシタ ガ、
シンデモ ラッパ ヲ
クチ カラ ハナシマセンデシタ。
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出典検索?: "木口小平" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年11月)

新しい歴史教科書をつくる会による扶桑社の市販本では、死んでもラッパを手から離さなかった、と変更され、後に教科書として文部科学省の検定に合格した。さらにその後、口から離さなかったと自主訂正された。
関連書籍

長岡常男
『木口小平』木口小平伝記刊行会、1932年

西川宏 『ラッパ手の最後 戦争のなかの民衆』青木書店1984年 ISBN 9784250840531 

脚注[脚注の使い方]^ “ ⇒熊本県出身軍人”. bujinkensyokai.web.fc2.com. 2021年8月24日閲覧。
^ 山形道文「われ判事の職にあり」262頁、1982年10月、文藝春秋、ISBN 978-4163376608

関連項目

信号ラッパ

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