朝鮮通信使
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朝鮮では当初は通信使派遣に反対したが、派遣しなければ再度侵攻の可能性があるという議論になり、朝鮮の正使は黄慎(行護軍兼敦寧都正)、副使は朴弘長(大邱府使)の随行が決まった。

冊封使は秀吉に接見できたが、朝鮮通信使は接見を許されずにで待機となる。冊封使は日本軍の朝鮮撤退を求めたが、秀吉は激怒して交渉は失敗に終わった[11]。通信使の黄慎は、冊封使の楊方亨に早急な帰国をすすめられるが、国書を秀吉に渡すことを希望して待機を続ける。堺には、和平の成功と帰国を期待する朝鮮人も集まっていた。しかし和平は破れ、日本の再出兵の動きを知った黄慎は帰国をして、慶長の役となった[12]
豊臣秀吉朝鮮通信使履歴

回数年目的・名称等
第1回
1590年天正18年)通信使
第2回1596年慶長元年)通信使

江戸時代の朝鮮通信使
国交の再開
両国の事情

江戸期の日朝交流は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。室町時代末期には日朝・日明貿易の実権が大名に移り、力を蓄えさせたと共に、室町幕府の支配の正当性が薄れる結果になった。そうなることを防ぐため、江戸幕府は地理的に有利な西日本の大名に先んじて、朝鮮と国交を結ぶ必要があった。

一方朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行った行為や李朝の対応への批判が高まると同時に[13]、日本へ大量に連れ去られた被虜人と呼ばれる捕虜の返還を求める気風が強くなっていった[13]。朝鮮の援軍として協力した明が朝鮮半島から撤退すると、日本からの再度の侵略を恐れながらも、対外貿易の観点からも日本と友好関係を結びたいと考えていた[13][14]。北方からの軍事的脅威も日本との国交再開の理由となった。ヌルハチのもとで統一された女真族が南下してきており、文禄・慶長の役では加藤清正軍が女真族と通じる状況もあったため、女真族と日本が協力する危険も朝鮮では検討されていた。そこで日本とは国交をして、南方の脅威を減らすという判断がなされた[15]
再開交渉

再開にあたっては、主として対馬藩江戸幕府と李氏朝鮮の仲介にあたった。これは対馬藩が山がちで耕作に向いておらず、文禄・慶長の役による疲弊もあり、朝鮮との貿易なくては窮乏が必至となるためである。対馬の宗氏は日本軍撤退の直後から朝鮮に接触をはかるが、使者は戻らなかった。そこで豊臣政権時代にも朝鮮への使者だった禅僧景轍玄蘇と、宗義智が交渉にあたった。景轍玄蘇の没後は、規伯玄方がこれを継ぐ。国交回復を確実なものとするために対馬藩は国書の偽造を行い、朝鮮側使者も偽造を黙認する。のちに、対馬藩の家老であった柳川調興は国書偽造の事実を幕府に明かしたが、対馬藩主・宗義成は忠告のみでお咎めなし、密告した柳川は津軽へ流罪、偽造に関わった玄方は盛岡藩へ配流された。この国書偽造をめぐる事件は柳川一件と呼ばれており、以後は朝鮮との交渉役の禅僧として朝鮮修文職が設けられた[16]。対馬藩の交渉によって使者が実現して、1604年(慶長9年・宣祖37年)には朝鮮が僧の惟政と孫文或を対馬へ送る。宗義智は使者2名を徳川家康秀忠に会見させて、幕府はすみやかな修好回復を希望した。
回答兼刷還使の開始

1607年(慶長12年・宣祖40年)には、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され、6月29日旧暦5月6日)に江戸で将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。ただし、このときから3回目までの名称は、回答兼刷還使とされている。回答とは国書に答える意味、刷還とは日本に残っている朝鮮人の捕虜を送還する意味がある。こうして日本側からの国書による回答(謝罪)を求め[13]、日本に連れ去られた被虜人を朝鮮へ連れ帰ることを目的とした[13]。回答の求めに対し、江戸幕府が国書を送った形跡はないが[13]、上記のように対馬藩は国書を偽造して関係を修復しようとした。被虜人については全員の送還を朝鮮は求めて、第1次で約1300人が帰国した。しかし、南蛮などに奴隷として売られた者、滞在の長期化で日本に家族ができた者もおり、第3次のころには本人が死去して子や孫の世代になっていた。帰国をしたのは6000人から7500人ほどとされる[17]。その後、両国が友好関係にあった室町時代の前例に則って、江戸幕府の要望により国使は回答兼刷還使から通信使となった。

1675年延宝6年・粛宗元年)には釜山に新しい倭館として草梁倭館も建設されて、面積は10万坪余となった。これは長崎の唐人屋敷の10倍、出島の25倍に相当する広さであった。倭館は外交拠点として対馬藩士が常駐して、貿易のほかに、通信使に関する連絡や情報収集にも用いられた[18]
江戸時代の通信使の編成、行程

室町時代の通信使編成は正使・副使・書状官の3使に輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊などが記されており、江戸時代に入ると旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫なども記録されて様式が完成されていった。通信使の正使には礼曹参議級の者が選ばれ、470人から500人の一行となった。これに対馬藩からの案内や警護1500人ほどが加わった。名称については、日本では年号によって慶長信使という具合に呼び、朝鮮では干支によって丁未通信使という具合に呼んだ。

新しい将軍が襲職すると、対馬藩は大慶参拝使を朝鮮へ送って知らせ、次に修聘参拝使を送って通信使を要請した[19]。通信使は釜山から海路で対馬壱岐に寄港。馬関を経て瀬戸内海に入り、鞆の浦牛窓兵庫などに寄港しながら大坂まで進んだ[20]大阪からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、からは輿(三使)、馬(上・中官)と徒歩(下官)で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取ったが、近江国では関ヶ原の戦いで勝利したのちに徳川家康が通った道の通行を認許している。


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