李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月[注釈 3]にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である[1]。 正式には朝鮮國[2]、または大朝鮮國[3]であり、現在の大韓民国では朝鮮王朝(朝: ????、英: Joseon Dynasty)とも呼ばれ、近年の日本でも同様に呼ばれる場合がある。北朝鮮では朝鮮封建王朝(??????)と呼ばれる。(#国名を参照) 日本では李氏朝鮮と表記され、李家支配下の朝鮮の意味であり、過去に朝鮮という国号を使用した箕子朝鮮や衛氏朝鮮などとの区別のため呼称される。王朝名としては李朝(りちょう)。 1392年に高麗の武将李成桂太祖が高麗王・恭譲王を廃して、自ら権知高麗国事(高麗王代理、実質的な高麗王の意味)になり即位を自称したことで成立した。 前政権を否定するために、高麗の国教であった仏教を否定し、「崇儒排仏」で儒教が国教化された。 李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、朝鮮国知事代理の意味)に正式に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝洪武帝から下賜されたものであった。しかし、権知高麗国事から正式に明に「朝鮮国王」として冊封を受けたのは第三代明皇帝の永楽帝と第3代権知朝鮮国事太宗の治世の1403年であった[4]。 中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は1894年に日本が清国に勝利して下関条約で「李氏朝鮮は独立国」と認めさせるまで中国大陸の支配王朝(明・清)の冊封体制下にあった。 李氏朝鮮は成立から併合されるまで、政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。李成桂に貢献したとされた勲旧派は、厳格に朱子学を重んじる士林派を4度大弾圧していたが、1567年の14代国王宣祖の即位とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、より理念的な朱子学こそ至高とされた。 ポストを独占した士林派は、1575年に東人派や西人派に分裂し抗争、1591年に西人派が失脚すると東人派は西人派粛清の最中北人派と南人派に分裂、1606年に北人派も大北人派と小北人派に分裂、大北人派も骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は続いたが、1623年3月13日、綾陽君(仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷クーデターが起き(仁祖反正)、光海君が廃位・追放されると、西人が政権を握り、大北派は粛清されて、政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後はまた南人派と西人派の間で政争が行われることになる。 西人派も1680年に老論派と少論派に分裂するなど李氏朝鮮は党派対立が常に激しく、妥協がないために政権交代は対立する派閥に関する虚偽の謀反誣告を受けた王による粛清か権力を握った派閥による粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。このように、反対派の芽ごと摘んでしまう士禍を繰り返した朝鮮王朝の政治を「朋党政治」という。近代化に必要な実学派は常に弾圧され台頭出来ずに政権を握った理念的な朋党が歴史書の修正を書き、反対派の記録を自分たちに有利なように書き直される非生産的な歴史が繰り返され、経済・技術・軍事が停滞していた[5][6][7]。
呼称
概説