その中の中国の満洲南部から渡来した夫余から発展した高句麗が南下しながら半島に勢力を拡大し、これに連動するように半島中部で北部の馬韓諸国を統合した百済、半島東南部では辰韓諸国を統合した新羅が成立し、3国が鼎立するに至った[13]。三韓時代を代表する百済、新羅、高句麗の各国はそれぞれ種族の偏りはあれど国である。その後、半島東南部を根拠地とする三韓系の国家である新羅が、百済・高句麗などの扶余、?貊系国家を打ち破って半島中南部を占拠し、半島北部と満洲をつなぐ扶余系国家はなくなった。統一新羅の時代に新羅は旧百済や高句麗の一部の領域を支配し、これを治めていたが、住民の旧国家への帰属意識は依然と残り、統一新羅が弱まり後三国時代に入る。高句麗系住民が建国した渤海と対立したが、渤海の滅亡以後、新しく建国された高麗が帰順してきた一部の流民を受け入れた。こういったながれの中で、現在の民族意識の確立は13世紀頃とみられる。三国時代(新羅・高句麗・百済を指す)から民族集団としての歴史は受け継がれたとされるが、モンゴルに支配された13世紀に入り『三国史記』の編纂や民族の啓発や統合が活発となり、13世紀後半に、現在の民族としての自己独自性の熟成と遺伝子的な一致がほぼ完成されたとみられる。
朝鮮民族の成立に影響した域外民族に漢族と倭人及び満洲族がある。朝鮮半島では古来、中国からの渡来人により征服(箕氏朝鮮)・植民され、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避し渡来した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」とある。また衛氏朝鮮の滅亡後、漢四郡がおかれ、漢によって半島北部が直接支配に入ることで漢人の流入があり、後に土着化する。また、高麗時代初期に異民族が23万8000人余りも帰化した[14]。あるいは契丹が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もある[15]。したがって、祖先が中国から渡来した渡来人が数多くいる。済州島にも耽羅民族が存在する。詳細は「朝鮮の外来帰化氏族」を参照
南部においては、前方後円墳等の倭人との関連が指摘されている遺跡が今も残されている。
東北部には、女真人など、ツングース民族の流入・渡来が相次いだ。
北朝鮮は2023年7月10日から「南朝鮮」から韓国(大韓民国)と呼ぶようになり、韓国は統一対象ではない別国家とし、「わが民族」という表現や統一政策を公式から削除した。専門家らによると、北朝鮮は南北統一を前提する方針から転換したからと推測されている[16]。2024年1月5日には、今後これ以上韓国とは同じ民族ではないと宣言した[17]。 宮本一夫は粘土帯土器文化の話者を古朝鮮語だとしている。粘土帯土器文化は遼東半島の涼泉文化などの粘土帯土器文化が朝鮮半島北西部から南部へと広がったものであり、それまで朝鮮半島で主流であった無文土器文化とは系譜的つながりはない。また粘土帯土器文化はそのまま原三国時代から朝鮮語話者であったと思われる新羅が含まれる三国時代へとつながっていく。このことから粘土帯土器文化が古朝鮮語話者であり、それまでの日琉祖語話者であった無文土器文化に置き換わったものとしている[18][19]。 中村大介によると、粘土帯土器文化は、遼河中流域で夏家店上層文化が消滅した後で、その系譜を引きつつ内モンゴル、モンゴル高原などの騎馬遊牧民の影響も受けて成立した文化である。
言語系統に基づく研究