朝鮮史
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無文土器時代のもう一つの大きな特徴として、支石墓が多数建造されるようになることがある。これもまた青銅器文化とともに中国東北地方から流入したものであり、朝鮮半島では2000以上の遺跡が見つかっている。全羅南道が分布の中心であり、全体の約半数が集中している[14]

朝鮮半島南部では日本列島と密接な人的交流があったものと見られ、勒島から弥生時代中期(紀元前100年)と推定される73基に及ぶ墓が見つかり、甕棺墓や北部九州の弥生土器の出土、骨格の特徴や抜歯風習などから西北九州と密接な関係を示唆している[15]

朝鮮半島において文献に登場する最初の国家は伝説的な箕子朝鮮であり、その後衛氏朝鮮が成立したと伝わる。衛氏朝鮮は前195年頃に人の衛満箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国したという[16]。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡として400年間支配されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った[17]

4世紀中頃に、鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の一部を征服するが、4世紀末までには高句麗が朝鮮半島北部を制圧し、南西部には百済、南東部には新羅が割拠した。

高句麗は4世紀の広開土王の代に、南北に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満洲南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗史をどのような枠組みで捉えるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。

百済は漢城(漢山城、現:ソウル松坡区)を都としていたが、475年、高句麗の攻撃により落城し、熊津に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、倭国に人質を出して和通し、儒教や仏教を倭国へ伝えた。南端部には諸小国の雑居する伽耶(加羅、任那)があり、その勢力争いには倭国も影響を及ぼした[18](旧説では「支配下」にあったとする[19])。釜山市近郊の金海礼安里古墳群は4世紀から7世紀に築かれた伽耶人の庶民層の集団墓地であるが、北部九州や山口地方の弥生人古墳人に近いという結果が得られた[15]

伽耶では特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったと言われているが、全域を統合する勢力は構築されなかった。後に伽耶諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。

朝鮮半島には中国大陸からの移住者が数多くあったことが古い史書に記録されており、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人がを避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』等に記載された伝説的な4代目の王(脱解王)が倭国の北東[注釈 1] の伝説的な国に系譜をもつとされる王であるなど、周辺諸地域との密接な関わりがあった。

7世紀に新羅は中国大陸と軍事同盟を結び、百済・高句麗を相次いで滅ぼして統一新羅国家として朝鮮半島の大部分を統一した。しかし、唐は旧高句麗の地に安東都護府を設置するなど、朝鮮半島を統治下に置こうとする。そこで、高句麗復興支援を掲げた文武王の下、新羅軍の支援を受けた高句麗軍が唐軍を攻撃して、唐・新羅戦争が開戦する。この戦いにおいて新羅軍は唐に圧勝し、唐を朝鮮半島から撤退させるも、高句麗遺民はツングース系とも言われる靺鞨とともに、大祚栄が建国した渤海国に合流していった。

唐を朝鮮半島から撤退させた時、唐の高宗に一時冊封を取り消された文武王は、謝罪使を派遣し、冊封は復活となった。

10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。

高麗は13世紀モンゴル帝国)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親を掲げる女真族ともいわれる李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。

朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。?英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀)の製作、時間を表す仰釜日?、自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。

16世紀豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てたの侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。

1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には

重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若朴斉家洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。[20]

19世紀半ばから欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文安重根が暗殺し、1910年に全土が日本併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。

なお、李氏朝鮮末期から日本統治期米ソ占領期、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清(中国)、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。
先史時代・古朝鮮時代高敞、和順、江華の支石墓群
先史時代

考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。詳細は「朝鮮の先史時代」を参照

旧石器時代「ko:??? ??? ??」も参照

公州石壮里遺跡


新石器時代櫛目文土器時代/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) - BC1000年


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