朝鮮半島
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韓国の面積は日本の約26%[注釈 1]、北朝鮮の面積は日本の約32%[注釈 2]、朝鮮半島全体の面積は、日本の約58%[注釈 3]、日本の本州の96%[注釈 4]イギリスグレートブリテン島とほぼ同じ面積である[注釈 5]

人口はおよそ7,600万人。人口密度の高さは世界有数であり、日本を超える。

朝鮮半島は中国大陸と同じく中国地塊に属する安定大陸(安定陸塊)で、先カンブリア時代には原型が出来上がっていたと考えられる。非常に古く安定した大地のため、日本列島に比べて地震が非常に少なく、また済州島を除いて火山も稀である。西側南部と対馬海峡側の海岸線はリアス式海岸になっている。

黄海に面した西側は平野が多く農地に適しており、古くから穀倉地帯として重要である。一方、日本海に面した東側は太白山脈をはじめ多くの山地がそびえており、平地は非常に少ない。半島は西朝鮮湾東朝鮮湾に挟まれた北緯39度線よりやや北方で最も狭まっており、最狭部より北方は黄海沿岸部を除いて海抜1000メートルを越える狼林山脈等の山地や蓋馬高原が卓越しており、農業には不向きである(特に白頭山付近は2000メートルを上回る)。

朝鮮半島の気候は、南部は温暖で湿潤な亜熱帯は蒸し暑い。北部は湿潤大陸性気候であり、冬の寒さは非常に厳しい。朝鮮半島の中で最寒の地とされるのは、鴨緑江上流の中江鎮である。現在は北朝鮮の実効支配地域であるが、韓国の新聞天気予報にも当地の最低気温の予想が掲載される。

朝鮮戦争によって生じた軍事境界線を中心とした幅4キロメートル非武装地帯地雷原のため、民間人は立ち入ることができない。そのため、渡り鳥などが集まる世界有数の野生生物の生息地となっている。
住民「朝鮮民族」および「朝鮮の歴史」も参照

中国史書によると、3世紀頃には朝鮮半島北部や東北部沿岸には夫余系民族、南部には韓人倭人が住み、西北部はなどのが置かれて移民漢人も住んでいた。4世紀頃には高句麗領に夫余族の高句麗人が、百済に百済人(支配層は夫余族、被支配層は韓族)が、新羅伽耶に韓族の新羅人と伽耶人が居住し、7世紀、新羅により統一されると民族統合が進んだ。その後、ツングース系女真族金朝の南下とモンゴル帝国の侵攻により、鴨緑江と豆満江一帯は再び民族混住地域となった。

一方、高麗時代にかけて異民族帰化した数字は23万8000人余りに達する[3]。あるいは契丹が滅亡して契丹人が各地に散る時に、高麗に入って来て暮らした契丹人は100万人に達するという記録もある[4]。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文学にたけ、官僚にたくさん進出した。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国出身帰化人である[3]。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい[3]。その後、李氏朝鮮の初期の頃までに豆満江一帯のツングース系女真族は朝鮮に同化されたと見られ、これにより朝鮮半島のほぼ全域が朝鮮民族の居住地となった。

1910年韓国併合により、日本本国(内地)から日本人外地の朝鮮半島に移住し、都市部を中心に居住していた。日本による朝鮮半島の統治1945年まで続いた。この時期における日本人の朝鮮半島全人口に占める割合は3%ほどであった。

朴チョルヒ(: ???、京仁教育大学)は、韓国の歴史教科書が過度に民族主義的に叙述され、帰化人の存在と文化的影響はほとんど触れられていないと批判している[3]。また、小学校6年生の社会教科書にある「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗百済新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に、朴チョルヒ(: ???、京仁教育大学校)は「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べてみよう』と記し、旧石器新石器青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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