仲間と飲む酒を大いに好み[3]、日記にも多く記載されているが、深酒し過ぎゆえの失敗も多い。本人もその日は反省するのだが、次の日には忘れて飲みに出るなど、全く懲りておらず、それが彼の命を縮めることとなった。
「予、昨夜、酒過ぎ、且つ食傷(食あたり)の気味なり。心神、例ならず、今朝二度吐逆す。従来慎むべし」(元禄13年6月7日)
「予、政右(相原政之右衛門、上司の息子。飲み仲間)にて昼、酒給(食)ぶ。吐逆し、はなはだ困る」(元禄13年6月21日)
「予、暮れ前に帰る。はなはだ沈酔し吐逆云うべからず」(元禄13年11月26日)
「晴。予、はなはだ酒に酔い吐することはなはだしく、殆ど我を忘れ、呼吸絶して大息す。謹じて後を戒めよ、愚かなるかな愚なるかな、今夜より禁酒」(宝永元年11月7日)
と、飲んでは吐いて反省する繰り返しである。しかし、
「予、御下屋敷にて沈酔まかり帰り、吐逆はなはだしく、はなはだ懲る」(宝永2年10月9日)
このように反省はするのだが、
「加兵(関加兵、釣り仲間)へ行き、瀬左(石川瀬左衛門、飲み仲間)も来たり、酒肴など給べる」(宝永2年10月10日)
次の日には、懲りずに飲みにいってしまうのである。
「雷鳴あり、辰半刻(午前8時ごろ)より弥次(姓不明、弥次衛門。友人の一人か)とともに風笑を誘い酒、給ぶ。それより石神にて酒、給ぶ。木ヶ崎へ行き、弁当給べて大森寺へ行き酒。子(午前0時ごろ)過ぎに帰る。予、大いに吐く。帰りても吐く」(正徳5年3月18日)
と、朝から深夜まで飲んでいるが、こんな生活が長く続くはずもなく、
「時どき呑酸、出づ。腹悪張りにはり、気宇すぐれず。腹筋引きつり、物を言うこと不自由。したたかに吐く」(享保2年12月27日)
となり、この2日後に「鸚鵡籠中記」は絶筆となるのである。 酒とともに、こよなく愛したのが能楽と「操り(人形浄瑠璃)」であった[3]。暇さえあれば悪友たちと連れ立って出かけていき、上方に公用で出張した時など、同じ歌舞伎の演目を3日連続で見に行くなど、重度の中毒と言っても過言ではない。 と、ひっきりなしに通っているのが分かる。内容にもうるさく、つまらなかった場合はダメ出しをしている。 芝居がない時は釣り、投網打ちが多い。「生類憐みの令」全盛期であっても、藩からの禁令が出ても、そのようなものはどこ吹く風。サボタージュを決め込み、友人たちとしょっちゅう「殺生」と称して出かけている[3]。 と、部屋住み、かつ新婚にもかかわらず出かけており、
芝居
「若宮にて操り。日親上人徳行記。太夫、笹尾平太夫、また側に踊りあり。太夫、隼桐之助八歳、軽業、物まね、大阪踊。」(元禄5年9月9日)
「予、石川三四郎、中野勘平(ともに友人か)と誘引し、若宮にて踊りおよび操りを見る。浄瑠璃の面白さ、からくりの奇妙さ、千花金字落五色、彩雲流廻背楽心実盛。」(元禄5年9月10日)
「予、若宮へ行き踊および操りを見る。能の加茂、但し中入りより帰る。」(元禄5年9月13日)
「予、若宮へ行く。踊りおよび操りを見る。能は田村なり。」(元禄5年10月15日)
「予、相応寺下神明にて神楽能を見る。」(元禄5年10月16日)
「予、若宮へ行き、操りを見る。能は高砂。中入り後、出る。」(元禄5年10月17日)
「予、若宮へ行く。踊および操りを見る。能は高砂。中入りより帰る。今日にて操り、仕廻(興業の終わり)なり。」(元禄5年10月18日)
「平左(加藤平左衛門)、分内(都築分内)、太田忠左(太田忠左衛門、それぞれ遊び仲間。加藤は同僚(御本丸御番)でもある)と児玉へ操り見物に行く。富士の牧狩。太夫は名人といへども、浄瑠璃古めかしく面白くなし。」(元禄8年4月10日)
「快晴。辰八刻(午前9時ごろ)、予、横長右(横長右衛門)、加平左(前述の加藤平左衛門、それぞれ遊び仲間)と共に日置へ行く。操り浄瑠璃を見る。御供米御蔵開く。太夫は加太夫流なり。みな善しと称す、然れども予を以ってこれを見れば、義太夫は入室、佐太夫は升堂を欲す。」(元禄10年2月9日)
投網・釣り
「予、味鏡へ鮠(ウグイ)釣りへ行く。然れども西風吹いて、棹投じるに及ばず。空しく帰る。志賀にて興津安右(興津安右衛門、遊び仲間)に逢ふ。御用水にて酒を給ぶ。鮠十二、三釣り帰る」(元禄6年5月17日)
「昼過ぎより、予、山崎へ殺生に行く。橋より上十町余を網して打つ。塩(潮)先に?(すばしり、ボラの子)を打たんと欲し、暮れ前にまた橋辺に来たる処に塩満ち、深くして?一疋も取れず。?は塩素凝(干潮)の時、橋の上下二十町余の間を打つといふ。また塩先のそろそろ来る時も吉と。戌半(午後8時ごろ)に帰る。」(元禄8年6月18日)