朝日重章
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

善右衛門も享保11年8月に病死、朝日家は断絶となった[2]

人物・エピソード

仲間と飲むを大いに好み[3]、日記にも多く記載されているが、深酒し過ぎゆえの失敗も多い。本人もその日は反省するのだが、次の日には忘れて飲みに出るなど、全く懲りておらず、それが彼の命を縮めることとなった。

「予、昨夜、酒過ぎ、且つ食傷(食あたり)の気味なり。心神、例ならず、今朝二度吐逆す。従来慎むべし」(元禄13年6月7日)

「予、政右(相原政之右衛門、上司の息子。飲み仲間)にて昼、酒給(食)ぶ。吐逆し、はなはだ困る」(元禄13年6月21日)

「予、暮れ前に帰る。はなはだ沈酔し吐逆云うべからず」(元禄13年11月26日)


「晴。予、はなはだ酒に酔い吐することはなはだしく、殆ど我を忘れ、呼吸絶して大息す。謹じて後を戒めよ、愚かなるかな愚なるかな、今夜より禁酒」(宝永元年11月7日)

と、飲んでは吐いて反省する繰り返しである。しかし、

「予、御下屋敷にて沈酔まかり帰り、吐逆はなはだしく、はなはだ懲る」(宝永2年10月9日)

このように反省はするのだが、

「加兵(関加兵、釣り仲間)へ行き、瀬左(石川瀬左衛門、飲み仲間)も来たり、酒肴など給べる」(宝永2年10月10日)

次の日には、懲りずに飲みにいってしまうのである。

雷鳴あり、辰半刻(午前8時ごろ)より弥次(姓不明、弥次衛門。友人の一人か)とともに風笑を誘い酒、給ぶ。それより石神にて酒、給ぶ。木ヶ崎へ行き、弁当給べて大森寺へ行き酒。子(午前0時ごろ)過ぎに帰る。予、大いに吐く。帰りても吐く」(正徳5年3月18日)

と、朝から深夜まで飲んでいるが、こんな生活が長く続くはずもなく、

「時どき呑酸、出づ。腹悪張りにはり、気宇すぐれず。腹筋引きつり、物を言うこと不自由。したたかに吐く」(享保2年12月27日)

となり、この2日後に「鸚鵡籠中記」は絶筆となるのである。
芝居

酒とともに、こよなく愛したのが能楽と「操り(人形浄瑠璃)」であった[3]。暇さえあれば悪友たちと連れ立って出かけていき、上方に公用で出張した時など、同じ歌舞伎の演目を3日連続で見に行くなど、重度の中毒と言っても過言ではない。

「若宮にて操り。日親上人徳行記。太夫、笹尾平太夫、また側に踊りあり。太夫、隼桐之助八歳、軽業物まね、大阪踊。」(元禄5年9月9日)

「予、石川三四郎、中野勘平(ともに友人か)と誘引し、若宮にて踊りおよび操りを見る。浄瑠璃の面白さ、からくりの奇妙さ、千花金字落五色、彩雲流廻背楽心実盛。」(元禄5年9月10日)

「予、若宮へ行き踊および操りを見る。の加茂、但し中入りより帰る。」(元禄5年9月13日)

「予、若宮へ行く。踊りおよび操りを見る。能は田村なり。」(元禄5年10月15日)

「予、相応寺下神明にて神楽能を見る。」(元禄5年10月16日)

「予、若宮へ行き、操りを見る。能は高砂。中入り後、出る。」(元禄5年10月17日)

「予、若宮へ行く。踊および操りを見る。能は高砂。中入りより帰る。今日にて操り、仕廻(興業の終わり)なり。」(元禄5年10月18日)

と、ひっきりなしに通っているのが分かる。内容にもうるさく、つまらなかった場合はダメ出しをしている。

「平左(加藤平左衛門)、分内(都築分内)、太田忠左(太田忠左衛門、それぞれ遊び仲間。加藤は同僚(御本丸御番)でもある)と児玉へ操り見物に行く。富士の牧狩。太夫は名人といへども、浄瑠璃古めかしく面白くなし。」(元禄8年4月10日)

「快晴。辰八刻(午前9時ごろ)、予、横長右(横長右衛門)、加平左(前述の加藤平左衛門、それぞれ遊び仲間)と共に日置へ行く。操り浄瑠璃を見る。御供米御蔵開く。太夫は加太夫流なり。みな善しと称す、然れども予を以ってこれを見れば、義太夫は入室、佐太夫は升堂を欲す。」(元禄10年2月9日)

投網・釣り

芝居がない時は釣り投網打ちが多い。「生類憐みの令」全盛期であっても、からの禁令が出ても、そのようなものはどこ吹く風。サボタージュを決め込み、友人たちとしょっちゅう「殺生」と称して出かけている[3]

「予、味鏡へ鮠(ウグイ)釣りへ行く。然れども西風吹いて、棹投じるに及ばず。空しく帰る。志賀にて興津安右(興津安右衛門、遊び仲間)に逢ふ。御用水にて酒を給ぶ。鮠十二、三釣り帰る」(元禄6年5月17日)

と、部屋住み、かつ新婚にもかかわらず出かけており、

「昼過ぎより、予、山崎へ殺生に行く。橋より上十町余を網して打つ。塩()先に?(すばしり、ボラの子)を打たんと欲し、暮れ前にまた橋辺に来たる処に塩満ち、深くして?一疋も取れず。?は塩素凝(干潮)の時、橋の上下二十町余の間を打つといふ。また塩先のそろそろ来る時も吉と。戌半(午後8時ごろ)に帰る。」(元禄8年6月18日)

家督を継いでからは釣りよりも投網(網打ち)が多くなり、友人に頼み大金(金一分)を払って新しい網を作ったりしている。

「予、金谷坊池へ殺生に行く。」(宝永3年9月2日)

「予、昼半ごろより大曾根より金谷坊へ網打ちに行く。暮れて帰る。」(宝永3年9月6日)

「予、昼ごろより瀬左(石川瀬左衛門、前述)、平太(姓名不明)と地蔵池へ網打ちに行く。道すがら酒飲み、楽。帰り、どぢゃう一升求め、三人して食ふ。」(宝永3年9月9日)

「予、昼過ぎより地蔵池へ行く。」(宝永3年9月11日)

「予、昼半より地蔵池へ網打ち。」(宝永3年9月14日)

「予、殺生に行く。地蔵池にて網し、未(午後2時ごろ)前に帰り、また金谷坊池へ行く。鮠、多く得たり」(宝永3年9月17日)

と、奉行になってからも飽きることなく、邸宅から10km以上ある地蔵池へ徒歩で何度も出向くなど、「殺生」に夢中であった。
脚注^ a b 謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月16日放送)より
^ 「士林泝」絶家之部 第百二十四「朝日家」. 名古屋市蓬左文庫. (1972) 
^ a b c 「元禄御畳奉行の日記」尾張藩士の見た浮世. 中公新書. (1984年9月25日) 

関連項目


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef