朝日映画製作
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1945年、戦後の短編映画第1作として、治安維持法違反によって獄中にした人々の解放を捉えたニュース映画『君達は喋ることが出来る』[9]を製作。同年、『戦災者の声』、『明日の婦人達』、労働歌をテーマとしたプロパガンダ映画『腕をくんで』などを製作するも、いずれも、左翼的すぎて映画館に受け入れられなかったため、一旦解散する[4]。同年12月、従業員の反対と占領軍の命令で解散を取り止め、再発足。12月1日に発足した「映画製作者連合会」に劇映画3社、ニュース短篇教育映画3社とともに加盟[10]

1946年3月、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞から役員を迎えて入れて増資を行う。製作局長に統合した芸術映画社の元社長・大村英之助が就任[4]。同月には、「新世界ニュース」を製作した。従業員数270名の大所帯であるため、経営が改善せず、9月に大村英之助は退任。この頃、池真理子渡辺はま子柴田つる子松原操ら歌手が総出演する演芸映画『麗人歌合戦』(20分・35mm・白黒)を製作。

新世界映画社改称から解散まで

1947年2月、「新世界ニュース」にあわせて、社名を新世界映画社と改称。同年、荒井和五郎の影絵映画『椰子の実』(10分 白黒、独唱=三浦環)公開。

1948年、小山鵠郎監督、村山英治脚本、諸井三郎音楽『古代の農民生活 登呂』(11分・35mm・ナレーション徳川夢声)、労働組合映画協議会全国繊維産業労働組合同盟から委託を受けた厚木たか構成による『少女たちの発言』(20分・16mm・白黒)製作。

1949年、労働組合映画協議会、労映国鉄映画製作団『号笛なりやまず』(36分・35mm・白黒)を製作。同年2月、債務超過のため業務停止となり、解散した。

出典・脚注^ 伊藤武郎1953年に設立した独立プロとは別
^ 1941年発足したニュース映画中心の日本映画社とは別。
^産業技術史資料情報センター
^ a b c dショートフィルム再考?映画館の外の映像メディア史から 吉原順平II 教育映画・文化映画・ドキュメンタリー映画??第二次大戦の終わりまで(承前)2 戦時短編の思想??「映画法」と「文化映画」
^Digital Meme
^朝日映画製作株式会社
^戦時下のスクリーン第一弾
^上映会情報発掘された映画たち2008
^ 作家の宮本百合子は、「文藝春秋」1946年9月号?11月号に短期連載した小説「風知草」で、この映画のタイトルに似たフレーズを使い、「『君達は話すことが出来る』と、今は工場の横庭でかたまって話している人々の間を、重吉(引用者注=夫の宮本顕治のこと)は歩いて来る」と書いている。「新日本文学」1948年8月号に発表した ⇒「三年たった今日??日本の文化のまもり??」で、「『君たちは話すことができる』一巻は、日本の民主化の過程に忘れることのできない記念品となった」「このニュース映画は、素朴な描写のうちに溢れる濤のような自由への渇望を語っていた。」と書いた。
^社団法人日本映画製作者連盟の歴史

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