朝日放送ラジオ
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新聞に掲載される番組表では、1989年3月31日まで『朝日』、『朝日 ABC』、『朝日ラジオ』と表記していたが、同年4月1日から『ABC』、『ABC 朝日』、『ABCラジオ』と表記が変わった。

朝日新聞大阪本社発行版では、2018年3月31日まで『朝日 ABC』という表記を用いていた。しかし、朝日放送の分社化と朝日放送ラジオの発足を機に、同年4月1日から『ABCラジオ』(「ABC」と「ラジオ」で改行する様式)に変更している。

番組内でも「朝日放送」から「ABCラジオ」へと言い換える向きが強まり、オープニング・クロージングアナウンスを「ABCラジオ」に言い換える2008年6月23日には原則「ABCラジオ」という表現へと変わっている。またこの言い回しに周波数を載せる向きもあり、その場合「AM1008 FM93.3(エイエムいちまるまるはち、エフエムきゅうさんさん)」と表現する。

認定放送持株会社化後、「朝日放送ラジオ」と表現することは経営関係の資料や公文書などを除き皆無となった。
沿革「高橋信三#毎日放送の実質創業者」および「TBSホールディングス#新聞系列」も参照

1948年昭和23年)秋 - 朝日新聞東京本社内に朝日放送設立準備委員会を設置。このとき「ABC」の呼称も決まる。

1949年(昭和24年)12月15日 - 東京・大阪で「朝日放送株式会社」の設立申請を郵政当局に提出。

1950年(昭和25年)12月 - 東京の「朝日放送」は「東京放送」(電通系)、「読売放送」、「ラジオ日本」[注釈 4] と合同してラジオ東京(JOKR。現在のTBSラジオ)となる。

1951年(昭和26年)

2月26日 - 大阪の「朝日放送」は新日本放送(現・毎日放送毎日新聞系)との合同工作に失敗。一転して同社と放送免許獲得競争を繰り広げる事となる。

3月15日 - 朝日放送株式会社の設立に伴って、創立総会を開催。大阪府大阪市北区中之島朝日会館に本社を設けるとともに、初代の社長に石井光次郎が就任した。

4月21日 - 5回にわたる公聴会での激しいやりとりの末、新日本放送と共に予備免許を獲得。

11月11日 - 大阪市北区中之島の朝日会館から、新日本放送に続いて関西地区の民間放送局としては2局目、日本で3番目のAMラジオ放送を開始。周波数1010kc(kcは現在のkHz)、出力10kW

11月13日 - 2代目桂春團治(落語家)が公開収録(朝日放送が本放送の開始を前に朝日会館内のスタジオで実施)で披露した13番(落語の13演目)から、1週につき1番(1つの演目)の収録音源をノーカットで流す演芸番組『春團治十三番』を、この日から翌1952年の2月5日まで毎週火曜日に放送。「スタジオへ観客を入れたうえで落語の高座を収録した後に、収録音源を放送した番組は、他局を含めてもこの番組が初めて」とされている。


1952年(昭和27年)1月21日より1週間、朝日放送・新日本放送・日本電報通信社大阪支社(現在の電通関西支社)の3社共同で、阪神地区で初の「ラジオ聴取率調査」を実施。これは民放初の聴取率調査でもあった。

1954年(昭和29年) - 1956年(昭和31年)にかけて、当時朝日会館の四つ橋筋を挟んで東側(現・中之島フェスティバルタワー東地区の位置)にあったアイススケートリンク「アサヒアリーナ」をオフシーズンの夏場のみ借りて、「アサヒラジオホール」(収容人数3,000人)として朝日放送ラジオ専用の公開録音会場として使用していた。

1958年(昭和33年)

当時「消滅」の危機に瀕していた上方落語の再興に奔走していた若手落語家の3代目桂米朝4代目笑福亭枝鶴(後の6代目笑福亭松鶴)と準専属契約を締結。

4月1日 - 「アサヒアリーナ」の跡地で新朝日ビルが落成したことを受けて、本社を同ビルの10 - 13階へ移転するとともに、公開放送で使用するABCホール(後のリサイタルホール)を同ビルの地下にオープン。

6月 - TBSラジオの母体に当たるラジオ東京(JOKR)との間でネットワークを締結。これを機に、同局との間で「東西同時放送」を毎週水曜日に実施したほか、一部の番組を同局と共同で制作するようになった。また、街頭録音番組、『北から南から』(ルポルタージュ番組)、大相撲日本プロ野球ナイトゲームなどのスポーツ中継、演芸番組、『ぴよぴよ大学』のバラエティ番組などでも、ラジオ東京と協調していた。その一方で、自社制作の人気番組(『夫婦善哉』や『お笑い街頭録音』)や高校野球中継などは、TBSの放送対象地域に当たる関東広域圏ニッポン放送(JOLF)から放送。逆に、『ポッポちゃん』(ニッポン放送開局当時の看板番組)のネット受けを実施するなど、特定の在京ラジオ局に偏らないような番組編成が開局の当初から為されていた。


1959年(昭和34年)10月1日 - 出力を20kWに増力。

1961年(昭和36年)12月1日 - 同社労働組合が実施したストライキの影響で、同日23時30分からテレビ・ラジオ共に停波。労使交渉妥結後の12月3日20時まで停波が続く。

1965年(昭和40年)5月2日 - JRN結成に参加。翌5月3日にはNRNの結成にも加わり、以降クロスネット化を推進しつつも在阪局で随一の自己制作比率を高めていく。

1966年(昭和41年)6月1日 - 大淀区(現在の北区)大淀南に完成したABCセンターに本社を移転。

1970年(昭和45年)7月 - 1950年代の後半に人気を博した浪曲のアーカイブ音源と、公開形式による浪曲の新録音源を放送する目的で、『おはよう浪曲』を日曜以外の曜日の早朝で開始。放送の曜日・時間帯やスポンサーなどを変更しながらも、2014年(平成26年)12月28日まで44年半にわたってレギュラーで放送された。

1971年(昭和46年)

4月1日 - 平日の早朝で『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の放送を開始。

11月1日 - 出力を50kWに増力。[5]

11月11日 - 前述の出力50KWへの増力を記念した1080分落語会を、この日の午前7時から翌日(12日)の午前1時まで「ABCセンター」内のABCホールで開催するとともに、この落語会の完全生中継を実施した。


1977年(昭和52年)3月28日 - 『おはようパーソナリティ中村鋭一です』の後継番組として、『おはようパーソナリティ道上洋三です』の放送を開始。

1978年(昭和53年)11月23日 - 午前5時をもって、ラジオの周波数を1010kHzから現在の1008kHzに変更。

1983年(昭和58年)4月1日 - 気象情報の提供元を日本気象協会からオーシャンルーツ日本社(現在のウェザーニューズ[注釈 5]へ変更。

1989年平成元年)4月1日 - ラジオの通称を「ABCラジオ」へ変更。

1992年(平成4年)3月15日 - 午前9時にラジオのAMステレオ本放送を開始した。MBSラジオ、TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送も同時に開始。

1995年(平成7年)1月17日 - 阪神・淡路大震災が発生。ラジオは『毛利千代子のおはようパートナー』が生放送中であったが、地震発生直後停電による中断が発生した。

2008年(平成20年)

1月1日 - 4代目となる新ロゴが登場。

5月19日 - 福島区福島1丁目へ本社を移転。

6月23日 - 演奏所(マスター)を新社屋に移転。新社屋からの最初の生番組は『宇野ひろみのおはようパートナー』であった。


2009年(平成21年)7月6日 - 新社屋移転などによる経費の増大と、広告収入減収や地上デジタル放送の設備投資などの影響で、平日22時から深夜にかけての番組を大幅に改編。


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