朝廷_(日本)
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近世期では徳川家康によって各地に散らばっていた朝廷の領地は整理され、山科1万石のみとなり、五代将軍徳川綱吉の時代になり、3万石に加増されたが、小大名ほどである[12][注釈 5]。詳細は「石高」を参照

近世期日本全体の石高が3千万石、将軍家直轄地が400万石(同書、家臣400万石と合わせ、800万石)と比しても小規模とわかる。ただし、大名からの返礼として献上された礼金や進物が収入源となり、実質的な財政状態は10万石の中大名に匹敵した[13]
その他

安貞元年(1227年)に平安京「内裏」が焼失して以来、天皇は「里内裏」(仮皇居)に居住し、これが常態化することになるが、中国のように為政者が大宮殿に住まうという発想はなかった
[14]。これは中国のように異民族との戦争による慢性的な財政逼迫の経験を持たず[15]、また国内の武士同士による合戦も自弁で戦うのが原則であったため、国家が大規模な財政をもつ必然性がなかったことによる[16]

近世期の古学では放伐論が肯定され、幕府は近世期の朝廷に政治的実権がない理由をつけたが、幕末では倒幕側にも放伐論が利用された。詳細は「古学」を参照

近世期における朝廷は、外国の王室とは異なり、「寸鉄も帯びず」といわれ、独自の軍隊を有さなかったため、幕末の動乱では何事においても有力藩の顔色をうかがわなければならず、この反動から維新直後では直轄軍隊をもつべきという貴族の論調があった[17]

脚注[脚注の使い方]
注釈^ 「朝政」という用語は『古事記』では全く使われておらず、『日本書紀』でも天智天皇紀と天武天皇紀でそれぞれ1箇所、わずか計2箇所だけである。
^ ここでいう「天皇家」は有力な権門勢家としての皇室の意味。律令体制が崩壊したのち、天皇制は形式と化したが、中世の天皇家は最高級の権門勢家の1つとして存在した。なお、「天皇家」という表現については「誤った言葉である」とする意見がある[誰によって?]。
^ その成立時期について、白石太一郎は3世紀前半の「邪馬台国連合」とは一応区別して3世紀中葉以降に「初期ヤマト政権」が成立したとし、箸墓古墳奈良県)・椿井大塚山古墳京都府)など出現期の前方後円墳が畿内につくられた時期としている。白石『日本の時代史1 倭国誕生』序章「四?1 初期ヤマト王権の成立」p.69-79
^ 笹山晴生ほか『詳説日本史』(山川出版社)、江坂輝弥ほか『高等学校新日本史B』(桐原書店)、加藤友康ほか『高等学校日本史B 改訂版』(清水書院)などではいずれも「ヤマト政権」、大津透ほか『新日本史』(山川出版社)では「ヤマト(大和)政権」、尾藤正英ほか『新選日本史B』(東京書籍)では「大和王権」などの表現が採用されており、高校での「大和朝廷」の表記はなくなっている。
一方、2006年(平成18年)における中学校教科書における表記は、『わたしたちの中学社会 歴史的分野』(日本書籍新社)、藤岡信勝ほか『改訂版 新しい歴史教科書』(扶桑社)の教科書では「大和朝廷」の表現が採用されている。なお、仁藤敦史ほか『中学生の歴史 日本の歩みと世界の動き』(帝国書院)では「ヤマト王権」、大口勇次郎ほか『新中学校歴史 日本の歴史と世界』(清水書院)、大濱徹也『歴史 日本の歩みと世界』(日本文教出版大阪書籍)、笹山晴生『歴史 未来を見つめて』(教育出版)では「大和政権」であった。
学習指導要領では2008年(平成20年)の中学校学習指導要領の改訂でも「大和朝廷」の用語は使用されており( ⇒[1])、高校では従来「大和朝廷による国土統一」( ⇒[2])の文言があったが、2009年(平成21年)告示の新学習指導要領では「大和朝廷」の用語は見られない(「ヤマト王権」などの用語も見られず、同時代の日本について「古代国家」との表現のみが見られる)。
^ 最終的な調査では4万石を超えている(「皇室財産」参照)。

出典^ 吉村『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』「第4章 飛鳥の都」p.117
^ 熊谷『日本の歴史03 大王から天皇へ』「第4章 王権の転機」P.231
^ 隋書巻八十一・列伝第四十六
^ 岸『日本の古代7 まつりごとの展開』「1 朝堂政治のはじまり」p.9-24
^百錬抄』の記載による。
^ 関『争点日本の歴史2 古代編T』「『ヤマト』王権の成立はいつか」p.53-54
^ 鬼頭『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』「大王と有力豪族」p.250脚注
^ a b 後述書 p.245
^ 後述書 p.244.
^ 『戦国時代に於ける皇室の研究』国史学11号
^ 今谷明 『戦国時代の貴族』 講談社学術文庫 2002年 p.245.
^ 水野計 『江戸の大誤解』 彩図社 2016年 pp.213 - 214.
^ 週刊朝日ムック 『歴史道 vol2[完全保存版] 江戸の暮らしと仕事大図鑑』 朝日新聞出版 2019年 p.24.
^ 後述書 p.159.
^ 後述書 p.159.
^ 五味文彦 『日本の中世』 財団法人放送大学教育振興会 第2刷1999年(1刷98年) ISBN 4-595-55432-X p.159.
^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 p.204.

参考文献

吉田孝『大系日本の歴史3 古代国家の歩み』小学館<小学館ライブラリー>、1992年10月20日。ISBN 4-09-461003-0

吉村武彦『集英社版日本の歴史3 古代王権の展開』集英社、1991年8月11日。ISBN 4-08-195003-2

熊谷公男『日本の歴史03 大王から天皇へ』講談社、2001年1月10日。ISBN 4-06-268903-0

白石太一郎『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館、2002年6月10日。ISBN 4-642-00801-2

関和彦「『ヤマト』王権の成立はいつか」『争点日本の歴史2 古代編T』新人物往来社、1990年12月20日。ISBN 4-404-01775-8

鬼頭清明「大王と有力豪族」『朝日百科 日本の歴史1 原始・古代』朝日新聞社、1989年4月8日。ISBN 4-02-380007-4

鬼頭清明『大和朝廷と東アジア』吉川弘文館、1994年5月1日。ISBN 4-642-07422-8

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