朝廷_(日本)
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『日本書紀』推古天皇紀《推古天皇16年八月壬子条》「召唐客於朝庭」と記された、隋使裴世清が天皇に来朝の挨拶をしたとされる小墾田宮の「朝庭」を指して、吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている[1]。また、熊谷公男は、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」としている[2]
朝政と朝儀

「朝廷」で執り行われたのが朝政と朝儀である。

朝政は、天皇が早朝に政務をみる「あさまつりごと」として始まり[3]、後に転じて、朝廷の政務一般を指す「ちょうせい」となった[注釈 1]。「あさまつりごと」については「朝政」を、「ちょうせい」については「公事#政務としての公事」を参照

朝儀とは、さまざまな公の儀式の総称であり、天皇即位儀元日朝賀任官叙位改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心とする儀式と、節会や外国使への賜饗などの饗宴を中心とする儀式とがあった。詳細は「朝儀」を参照
朝堂院詳細は「朝堂院」を参照

朝堂院は朝政と朝儀が執り行われた朝廷の正庁であり、小墾田宮の「朝庭」は住まいである「宮」から分離して朝堂院の原型が姿を見せており、「朝堂」を置いて政務を執る「朝堂政治」が開始されたのを推古天皇治下とする[4]が、その規模が確認されたものでは、条坊制により日本史上最初に建設された都城とされる藤原京(藤原宮)の朝堂院が最古である。

朝堂院はその後平城京難波京長岡京平安京と都が移っても建設され続けた。平安時代876年貞観18年)、1058年康平元年)に焼失し、そのたびに再建されたが1177年安元3年)の安元の大火ののちは再建されなかった。

内裏の焼失により里内裏が現れるようになって後、天皇が政務を執る場所は朝堂院の有無にかかわらず天皇の私的な住まいであった内裏に移り、朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった[5]

また、退位した天皇(上皇)が「天皇家の当主」[注釈 2]である資格をもって政務を行う院政も朝堂院外で行われたが、これも朝廷に含められる。

なお、中国の場合とは異なり、日本では、天皇の私的な住まいである内裏の七殿五舎後宮)には宦官が置かれず、もっぱら女官によって秩序が維持された。
歴史「日本の歴史」も参照

武家政権が樹立される以前と以後で朝廷の性格が大きく異なり、武家政権が樹立される以前は政権として機能し、武家政権が樹立された以後は武家政権の権威を保障する立場となった。
大宝律令施行以前
大和朝廷詳細は「ヤマト王権」を参照

奈良時代以前の古墳時代から飛鳥時代にかけての畿内政権は、主に飛鳥近辺の大和地方に宮を置いていたので「大和時代の朝廷」という意味合いで「大和朝廷」と呼称されてきた。しかし、大和地方は古墳時代当時は「倭」もしくは「大倭」と表記され「大和」の表記が後のものであることと、1970年以降、古墳時代の政治組織にかかわる研究の進展から、朝廷の語源である「君主制下で官僚組織をともなった政府および政権」というよりも、古墳時代に関しては「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と呼ばれることが多くなっており[注釈 3]、「大和朝廷」の表記は少なくなっている[注釈 4]

このことについて、関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し[6]、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、武烈朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している[7]

また中国側の史書である『隋書』600年条の記述では、日本が夜に政治(まつりごと)を行っていることを説明し、中国皇帝が合理的でないとし、改めるように指示したことが述べられており、中国と国交を結ぶ必要性と律令制導入のため、日本側も中国式である「朝に政治を行うスタイル」に変化している。内容としては、日本側は、日本には独自の思想と文化があると主張したが、中国側はこれを否定したため、以後、中国文化に合わせたことになる。つまり古墳時代の日本は、朝廷=朝に政治をする体制ではなかった。

645年中臣鎌足中大兄皇子が起こした乙巳の変により、蘇我氏が倒されたことに始まり、646年には改新の詔が出され、大化の改新が行われた。それにより皇極天皇退位し、中大兄皇子ではなく孝徳天皇即位した。中大兄皇子は皇太子として政務をとった。

667年近江大津宮遷都し、668年には中大兄皇子が天智天皇に即位した。
皇親政治期詳細は「皇親政治」を参照

672年に天智天皇が崩御すると、同年には大海人皇子が弘文天皇に対して挙兵し、壬申の乱が勃発する。この戦いに大海人皇子が勝利し、天武天皇が即位する。また、近江大津宮から飛鳥へ戻した。そして、皇族が要職を占め、大臣が一人もいなかったため、皇親政治と呼ばれる。

679年に天武天皇が皇位継承に争いが生じないように吉野の盟約が結ばれる。
大宝律令施行以降・武家政権樹立以前

701年の律令を参考に大宝律令が施行される。また、757年には養老律令も施行され、朝廷の政治制度が確立されることになる。
親政期詳細は「親政」を参照

781年光仁天皇譲位したことにより、桓武天皇が即位する。そして784年平城京から長岡京へ遷都するが、天災が相次いだため、794年平安京へ遷都する。また、蝦夷を服属させるために3度に渡り蝦夷征討を行った。しかし、805年には徳政相論が起き、藤原緒嗣の進言を受け容れ、蝦夷征討と平安京の造作を中断した。

887年臣籍降下していた源定省は光孝天皇が重態に陥ったことにより、親王宣下を受け立太子したが、そのまま崩御したため、宇多天皇が即位した。

宇多天皇は藤原基経関白に任じる詔勅を発するが基経は一度断る。その後阿衡に任じる詔勅を発するが、基経は実権のない役職として抗議し、一切の政務を放棄し、阿衡事件が起きる。そして宇多天皇は詔勅を取り消し、橘広相を罷免した。891年に基経が死ぬと宇多天皇は基経の嫡子である藤原時平を参議に任じるが、それ以外にも源氏である源能有菅原道真など藤原北家嫡流から離れた人を多く抜擢し、律令制への回帰を図った。この治世は寛平の治と呼ばれる。

897年に宇多天皇が譲位したことにより、醍醐天皇が即位する。

醍醐天皇は時平と道真に左右大臣に任じて政務を任せるが、901年に時平の讒言を受け入れたことにより、昌泰の変が発生し、道真を左遷した。しかし、時平および醍醐天皇は律令制への回帰を先代同様に図るが成功せず、律令制復活の最後の試みとなった。また、文化面では勅撰和歌集である古今和歌集を編纂した。この治世を延喜の治と呼ばれる。

935年承平天慶の乱が勃発し、朝廷は征伐軍を送り鎮圧した。しかし、律令制の衰退が明白となる。

944年朱雀天皇が譲位したことにより、村上天皇が即位する。


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