朝倉義景
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4月、義秋が朝倉館で元服し義昭と改めた[19]。その後も義昭は朝倉館を訪問し、義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深めて、上洛戦を求めた。

6月、義景の嫡男である阿君丸が急死する[20]

このように義景は義昭が望む上洛戦には冷淡であったため、7月に義昭は美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って動座しようとした。義景は止めようとしたが、義昭は滞在中の礼を厚く謝する御内書を残して越前から去った(『 足利季世記』)[21]
信長包囲網詳細は「信長包囲網」を参照

永禄11年(1568年)8月、若狭守護武田氏の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を保護という名目で小浜から連れ去り、越前一乗谷に軟禁。武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏など、一部に従属を拒否する抵抗勢力を残しつつも[22]、若狭を支配下に置いた(『国吉城籠城記』)。この若狭侵攻は当時上洛作戦を展開していた織田信長と浅井長政の援護が目的であったとの説もある。

永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛した。上洛した信長は義昭を将軍とし、義昭の命令として義景に対し上洛を2度に渡って命じたが、義景はこれを拒否した。信長側としては、越前は織田領である美濃と京都の間に突き出された槍のような位置に当たり、義景を服属させる必要があった。朝倉側としては、織田家に従うこと自体を嫌ったため、また上洛すれば朝倉軍が長期に渡って本国・越前を留守にする必要があり、それに対する不安があったためとされる[23]

このため永禄13年(1570年)4月20日、義景に叛意ありとして越前出兵の口実を与えることになり、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることになる[注釈 3]金ヶ崎の戦い)。連合軍の攻勢を前に、旧若狭武田家臣の粟屋氏・熊谷氏らが信長に降伏。また支城である天筒山城金ヶ崎城が織田軍の攻勢の前に落城した。義景は後詰のために浅水(現在の福井市)まで出兵したが、居城の一乗谷で騒動が起こったとして引き返した[25]。しかしその後、浅井長政が織田軍を裏切り背後を襲ったため、信長は京都に撤退。朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿の将の一人である池田勝正に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がし(『革島文書』『信長公記』)、信長に再挙の機会を与えることとなった[26]

元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。朝倉軍は朝倉景健を総大将として8000の兵力(一説に1万5000人)で徳川軍と対戦したが、榊原康政に側面を突かれ、敗走した。『信長公記』によると浅井・朝倉軍は1100余の損害を出したとされる[注釈 4]。織田軍は浅井方の支城の多くを陥落させ、浅井・朝倉側は以後の戦いにおいて不利な立場に陥った。

8月25日、信長が三好三人衆石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙を突き、義景自ら出陣。浅井軍と共同し、9月20日に織田領の近江坂本に侵攻。信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。さらに大津を焼き働きし、9月21日には醍醐・山科に進駐した[28]。信長が近江まで軍を引き返すと、義景は比叡山に立て籠もり織田軍と対峙する(志賀の陣)。このとき信長は比叡山に、自らに味方するよう要求したが、無視された。

10月20日、織田・朝倉間で小規模な戦闘が発生。信長は義景に日時を定めての決戦を求めたが、義景は無視した(『言継卿記』『尋憲記』『信長公記』)[29]。11月25日、信長は義景の退路を断つために堅田に別軍を送った。11月26日には朝倉・織田間で合戦となるが、双方痛み分けとなった。11月28日、足利義昭・二条晴良らが坂本に下向して和睦の調停を行なった。さらに信長は朝廷へ工作を行なったため、12月に信長と義景は勅命講和することになる[注釈 5]

元亀2年(1571年)1月、信長は秀吉に命じて越前や近江間の交通を遮断・妨害した。6月11日、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させた(『顕如上人御書札案留』)[31]。7月に六角義賢が京都に侵攻しようとした際には、洛中で放火などしないようにという書状を送っている(『田川左五郎氏所蔵文書』)[31]。8月、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城・箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。この後、信長は前年に朝倉に協力した比叡山を焼き討ちした。

元亀3年(1572年)7月、信長は小谷城を包囲し、虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備し始めた。これを見た浅井氏は朝倉氏に「長島一向一揆が尾張と美濃の間を封鎖したので、今出馬してくれれば織田軍を討ち果たせる」と虚報を伝え、義景はこれを信じて支援に赴いた。しかし義景は攻勢には出ず、織田軍から散発的な攻撃を受けると、前波吉継富田長繁ら有力家臣が信長方に寝返った。9月には織田方の砦が完成。信長は再び日時を決めての決戦を申し入れたが、義景はこれを無視した。9月16日、信長は砦に木下秀吉を残し、横山城へと兵を引いた。

10月、甲斐国武田信玄西上作戦を開始。遠江国三河国方面へ侵攻し、次々と徳川方の城を奪った。この出兵の際、信玄は義景に対して協力を求めている[32]。これを受けて信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で打って出たが、虎御前山砦の秀吉隊に阻まれ敗退する。12月3日、義景は部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文書を送りつけられる(伊能文書[33]


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