安本美典が唱える説で、甘木・朝倉地方を中心とした周辺地域の地名と、奈良・大和地方を中心とした周辺地域の地名の酷似[3]から、邪馬台国の中心は甘木・朝倉にあり後に奈良・大和地方に移って大和朝廷になったとする説。この説にちなんで5月には甘木公園[4]で「花の邪馬台国まつり」が開催されている。 秋月氏は1587年(天正15年)、豊臣政権による九州征伐に屈し、日向国高鍋に移封された。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの功により、黒田長政が筑前国の領主となる。秋月には叔父の黒田直之を配した。直之は秋月城や町割りを整備した。その後1623年(元和9年)、福岡藩を統治していた黒田長政の遺言により、長政の三男黒田長興が秋月に5万石で分封され秋月藩が成立、城下町を立て直した。以後は黒田氏による統治が明治時代の廃藩置県まで続くこととなる。 廃藩置県により秋月県が誕生、県庁所在地となったがすぐに福岡県に統合され、県内の一都市となった。その後、明治政府の打ち出した政策に強い不満を抱いた士族により、1876年10月24日熊本藩で起きた神風連の乱に呼応する形で10月27日に秋月の乱が起こった。 1953年6月に九州一帯を襲った集中豪雨により筑後川が各所で氾濫。現在の朝倉市域では、特に大福、蜷城一帯の全家屋が浸水した[5]。 2017年7月5日に九州北部を襲った記録的な集中豪雨では市内の黒川地区にある北小路公民館では降り始めからの累加雨量894mm、24時間雨量829mmに達するなど市内各地で記録的な豪雨となり、市内各地で土砂崩れや河川の氾濫による浸水が発生。市内で34人が死亡、2人が行方不明となったほか、住宅の全壊・大規模半壊372件、その他国道386号を中心とする道路等の生活基盤施設や農地なども多くの被害を受けた[6]。 朝倉市では同年度末に復興計画を策定、2020年代も復興・復旧や将来に向けた防災・減災事業が進められている。17世帯が暮らしていた小河内地区は、被災者生活再建支援法に基づく長期避難世帯に指定され、のちに1軒が地元へ戻ったものの、転居先での暮らしの定着や砂防ダム建設計画の浮上などもあり、2022年春に地区の解散を決めた[7]。
武家政権時代(たねかつ)が鎌倉幕府より秋月庄を賜り秋月城(現在は城跡のみ)の築城を始める。それ以降、原田氏は秋月氏を名乗り、以後17代にわたって統治が続き城下町として栄える。
戦国時代末期以降
近現代における行政区域の変遷
1889年4月1日:町村制施行により、現在の市域にあたる以下の町村が発足。
夜須郡甘木町・馬田村・上秋月村・秋月村・安川村
下座郡三奈木村・金川村・蜷城村・福田村・立石村
上座郡高木村・大庭村・福成村・宮野村・朝倉村・杷木村・松末村・久喜宮村・志波村
1893年12月27日:【町制施行】秋月村 → 秋月町
1896年2月26日 :郡制施行により、上記町村はすべて朝倉郡に属する。
1909年6月15日:【新設合併】大庭村・福成村 → 大福村
1939年4月17日:【町制施行】杷木村 → 杷木町
1951年4月1日:【新設合併】杷木町・松末村・久喜宮村・志波村 → 杷木町
1954年4月1日:【新設合併・市制施行】甘木町・秋月町・上秋月村・安川村・立石村・福田村・馬田村・蜷城村・三奈木村・金川村 → 甘木市
1955年3月10日:【編入】高木村 → 甘木市
1955年3月31日:【新設合併】朝倉村・宮野村・大福村 → 朝倉村
1962年4月1日:【町制施行】朝倉村 → 朝倉町
2006年3月20日:【新設合併】甘木市・朝倉町・杷木町 → 朝倉市
災害
昭和28年西日本水害詳細は「昭和28年西日本水害」を参照
平成29年7月九州北部豪雨詳細は「平成29年7月九州北部豪雨」を参照
被災の様子
九州北部豪雨により北川が氾濫し被災した朝倉市杷木志波(2017年7月7日)