服部良一
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上海交響楽団ではクラシックの指揮も行い、ロッシーニ作曲「ウィリアム・テル」序曲で、エディションの違いによるメロディーの相違についてイタリア人イングリッシュ・ホルン奏者(かつてアルトゥーロ・トスカニーニのもとで演奏した)と論争になったことを、後に自伝「僕の音楽人生」で語っている(この奏者の名前は語られていないが、在籍年次からしてジラデッロ(Giradello)ではないかと思われる)。
敗戦後よりの活躍1950年1954年

第二次世界大戦後は、コロムビアを中心に旺盛な作曲活動を行い、戦前に実験済みだったブギのリズムを取り入れ『荒城の月ブギ』を編曲、笠置シヅ子との提携で『東京ブギウギ』『ヘイヘイブギ』、戦後のプロ野球ブームを歌った『ホームラン・ブギ』、大阪弁をモチーフにした『買物ブギ[注 3]』などのブギウギの名曲をヒットさせた。このほか主要な作品には、藤山一郎、奈良光枝による『青い山脈』、二葉あき子が歌った『夜のプラットホーム』(1939年に淡谷が吹き込んだが、「出征兵士の士気を殺ぐ」という理由で発禁処分)、霧島昇が歌った『夢去りぬ』・『胸の振り子』、近江敏郎と二葉あき子によるタンゴ調の『黒いパイプ』、ビクターでは灰田勝彦が歌った『東京の屋根の下』、市丸の『三味線ブギウギ』などがある。

また作詞家としての才能も発揮し、前述の『買物ブギ』や『銀座セレナーデ』(歌:藤山一郎)などを「村雨まさを」名義で発表しヒットさせ、終生この名を使った。その後も流行歌作品、管弦楽曲、声楽曲などの創作を精力的に続ける傍ら、古賀政男らとともに日本作曲家協会[注 4]日本レコード大賞の創設にも尽力するなど日本のミュージックシーンの発展に尽くし、1969年紫綬褒章を受章。1978年勲三等瑞宝章も受章。1987年品川区名誉区民に選出される。

1993年1月30日、東京都品川区の昭和大学病院呼吸不全のため85歳で死去[2]。墓所は東京都杉並区永福築地本願寺和田堀廟所。死去から約1か月後の同年2月26日、作曲家としては古賀政男に次いで史上2人目となる国民栄誉賞が授与された。2007年12月30日、第49回日本レコード大賞にて特別賞を受賞した。
親族

息子に作曲家の服部克久と、「劇団黒テント」創設メンバーで舞台俳優の服部良次(芸名:服部吉次)、ほかに長女・初音、次女・梢、三女・早苗の娘3人がいる[3]。孫に作曲家の服部隆之(克久と妻時子の長男)、音楽畑出版代表取締役の服部奈緒(克久と時子の長女)、バレエダンサー振付師服部有吉(吉次と女優の石井くに子の次男)、曾孫にヴァイオリニスト服部百音(隆之とヴァイオリニストの岡本(服部)エリの長女)。歌手宝塚歌劇団出身の服部富子(芸名:水間扶美子)は妹[4]
著名人との交流

政治家森清洋画家脇田和猪熊弦一郎実業家の橋本兵蔵(月光荘画材店創業者)、小林利雄御木本美隆建築家谷口吉郎などとは家族ぐるみの付き合いで(絵画好きの共通点から)、1955年には彼らで長野県軽井沢町長屋形式の別荘「画架の森」を建てている(谷口の設計)[5]。この別荘にはジョン・レノンオノ・ヨーコ夫妻や、元内閣総理大臣鳩山一郎夫妻なども遊びに来たという[6]。また、1950年代に東京都内の自宅には、古川ロッパ榎本健一トニー谷らも訪ねたとされるほか、ジャニー喜多川もその1人であり、2023年になって次男の服部吉次が性被害を受けていたことが明らかとなっている[7][8]
作品
主な作品

おしゃれ娘
(詞:久保田宵二、歌:淡谷のり子

別れのブルース(詞:藤浦洸、歌:淡谷のり子)

雨のブルース(詞:野川香文、歌:淡谷のり子)

街のピエロ(詞:久保田宵二、歌:霧島昇

浮世ぐるま(詞:林柳波、歌:霧島昇)

歌え若人(詞:島田芳文、歌:霧島昇)


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