服部半蔵
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服部半蔵正賢(正覧)

今治藩松平筑後守家の家臣である小服部家・服部伊織の次男。名は茂十郎。正盈の半蔵解任に伴い享保18年(1733年)家督を相続し、1000石の年寄となる。幼少の頃から持病の喘息に悩まされ、病弱であった。半蔵を襲名した後も喘息の悪化により度々職務に支障をきたしたため再三にわたりお役御免を申し出たが、そのたびに引き留められ、温泉地などで養生するよう申し付けられた。安永3年(1766年)会津白河にて病没。
服部半蔵(内記)

桑名藩家老。詳細不明。
服部半蔵正礼

桑名藩家老。服部日記と号する。文政7年8月4日(1824年8月27日)没。
服部半蔵(諱不明)

桑名藩家老。千石。詳細不明。
服部半蔵正啓

桑名藩家老。名は吉人。文政8年2月18日(1825年4月6日)没。
11代目 服部半蔵正綏

最後の服部半蔵である正義と桑名藩家老 酒井孫八郎の父。文政7年家督を継いだ。初め左太夫、伊豆と名乗った。
12代目 服部半蔵正義

弘化2年(1845年)9月29日生まれ。21歳で(大服部家)家督を継ぎ桑名藩家老となる[10]。名は半十郎。服部半蔵日記を記す。桑名藩家老である酒井孫八郎は正義の弟である。藩主の松平定敬が京都所司代となり、その補佐として正義も京に赴く。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いに桑名軍を率いて参戦、明治元年(1868年)閏4月には転戦した柏崎鯨波戦争で指揮官を務める。同年9月26日に庄内にて降伏。官軍に身柄を拘束され謹慎処分となるが、明治2年12月、桑名藩の戦後処理の終了と共に謹慎が解かれ自由の身となる。その後は桑名藩の要職や三重県第一・第三区長を務め、明治19年(1886年)1月22日に没した。詳細は「服部正義」を参照
服部半蔵 由来の武具

一部の武具は現在も比較的良好な状態で保存されており、拝観が可能なものも存在する。しかし、その他の武具や感状のほとんどは慶長9年の江戸城火災による麹町服部屋敷の類焼や長男正就の改易、大坂の陣の混乱等により失われたとみられる。
一覧

初代服部半蔵(保長)の武具
足利将軍より拝領の具足、槍、伯耆安綱の刀。初代服部半蔵である服部保長が足利家に仕えていた折に将軍
足利義晴より拝領したが、このうちの二つは焼失したという。刀の銘は「伯耆国大原五郎太夫安綱」であった。(年月・所在不明)[4]

2代目服部半蔵(正成)の武具
葵紋の盃と穂先七寸八分の持槍。三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立た際に家康より拝領。(年月・所在不明)[4][5][11][12]

姉川合戦一番槍に使用した持槍(所在不明、史料中の記述より1.の槍と推察される)[4][13][14]

大長刀(無銘・年月及び所在不明)[4]

三方ヶ原合戦の戦功で浜松城二の丸にて家康より拝領した二本の槍の一つである槍。東京都新宿区四谷の西念寺 (新宿区)所蔵の槍とみられる。(銘・作者不明)[3][13][15][16][17]

平安城長吉の槍。三方ヶ原合戦の戦功で浜松城二の丸にて家康より拝領した2本の槍の一つで、4.の槍と共に贈られた[15][16][13][17]。正成・正就の後、四代目服部半蔵である服部正重が所有した[3]

相州廣正の懐剣。武田の間者の竹庵を討ち止めた時、褒美として家康より贈られた。(年月・所在不明)[4][12][17]

家康の御召具足と同じ黒中核の黒藍皮縫延鎧、御召と同じ縅の大星兜、御持と同じ拵えの采配。家康は奈良という具足職人にこれらを作らせ、正成に贈った。御召の兜は桃形兜であったが、正成に贈られたのは星兜であった[4][12][17]。采配は天目黒塗りの柄の後先に銀の歯形の逆輪をつけたものであった。しかし、慶長9年の江戸城火事による麹町服部屋敷の類焼により具足は焼失し現存しない。采配は長男正就の戦死で所在不明になったとも、次男正重が佐渡勤めの最中に紛失したとも伝えられている。(年月・所在不明)[4][16]

直江志津の打刀。正成は自らの所有した直江志津の打刀を本多忠勝の家老梶勝忠(梶金平)に贈ったといわれ、梶家に伝わる刀が現存している。(無銘・東建コーポレーション所蔵)

酒井修理大夫家士大谷正澄所蔵 服部半蔵の槍。穂三尺七寸、樋深さ中にて三分計。(年月・所在不明)[18]

3代目服部半蔵(正就)の武具
東京国立博物館に正成の長男「服部半蔵正就」の名を刻んだ永禄5年(1562年)作、関兼久の大身槍が所蔵されている[注釈 1]


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