有珠山
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この寛文噴火をはじめ、同時期の北海道の南西部では渡島駒ケ岳1640年)、樽前山1667年)と火山の大噴火が頻発していた。これら火山の降灰による環境悪化が、1669年に発生したアイヌの大規模蜂起「シャクシャインの戦い」の一因になった、との見解もある[7]
先明和噴火

寛文噴火のち、有珠山の噴火記録は100年ほど絶える。しかし2000年代初頭に実施された有珠山周辺の噴出物調査によれば18世紀前半頃に噴火活動が存在したことが判明している。寛文噴火で有珠山周辺が荒廃し人口希薄地帯となったため、記録に残らなかったものと考えられる。この噴火は、次代の明和噴火にちなみ、便宜上「先明和噴火」と呼ばれている。[8]
明和噴火

文献記録によれば、1769年明和6年)旧暦12月、有珠山は約100年ぶりに噴火した。この噴火の直後に書かれた記録は少なく、『福山秘府年歴部』に「有珠山が噴火し、アイヌがおののき避難した」と記されているのみである。一方、次の文政噴火の折に有珠善光寺の僧が地元のアイヌから「前回、御山が焼けた折(明和噴火)には一面に火が降り、タバ風(北西の風)でオサルベツ(長流川)沿いの家がすべて焼失した」との証言を得ていることから、明和噴火時に小規模な火砕流が発生したと推測される[6]。山頂陥没部に現在の小有珠にあたる溶岩ドームが形成されたのは、この明和噴火か寛文噴火の時と考えられる。
文政噴火

文献記録に残る有珠山の噴火史上で最大の人的被害をもたらした噴火。この時期、有珠山南西麓のアブタコタン(虻田町入江地区)には和人とアイヌの交易場所・アブタ場所が設けられ、戸数の多いコタンとして栄えていた。この噴火の顛末は、有珠善光寺の僧の日記『役僧日記』に克明に記されている[6]

1822年文政5年)旧暦閏1月16日より有感地震が発生。18日には3、40回に増加し、アイヌたちの間に「噴火の前兆かもしれない」との動揺が広まる(地元住民が噴火と地震の関連を経験則でつかんでいた事がうかがえる)[6]。1月19日、半日で100回もの有感地震ののち、午後8時ごろ噴火が始まる。アイヌの長老たちはエムシを抜いて魔除けを行うも効果は無く、住民も善光寺の僧もベンベ(現在の豊浦町)やフレナイ(洞爺湖町赤川地区)方面に避難を開始する。20日に再度噴火。22日には早朝より大噴火。四斗樽ほどの焼石が幾千万となく流星のように吹き上がり、夕立のように降る。前山は猛火に包まれ、山麓には重さ30?40貫、シラオイ(現在の白老町)でも茶碗大の焼石が降った。モロラン(現在の室蘭市)では火山灰が3寸の厚さに積もって闇となり、白樺の皮を焚いて明かりとしたという。26日にも噴火[6]。2月1日早朝、大噴火と共に火砕流と火砕サージが発生した。火砕流は外輪山を超えて有珠山南西山麓を襲い、長流川河口からアブタコタン、フレナイの区間は山林から会所、板倉、アイヌのチセ(家)の別なく炎上し、牧場主の村田卯五郎、場所請負人の茂兵衛、アイヌの住民など記録によって異なるものの50人以上が死亡した[6]。蝦夷地随一の馬産牧場だった虻田・有珠牧場も2,468頭の飼育馬のうち1,430頭を失う被害を受けた。その後は徐々に活動が沈静化し、2月下旬に終息した。現在ではオガリ山と呼ばれているカルデラ内部の潜在ドームは、一連の文政噴火で形成された。また、1977年昭和52年)の噴火以前までカルデラ内部にあった金沼、銀沼、茶沼の3つのは、いずれも文政噴火時の火口に水がたまったものされる。

文政噴火の結果としてアブタコタンは廃村となり、アブタ場所もフレナイ地区に移転となった[6]。虻田のアイヌ民族の昔話に、文政噴火を題材としたものがある。「噴火の時、村民はみな他所に避難したが、村長だけは祭壇の前で祈り続けていた。やがて噴火が収まり、避難していた者がコタンにもどってきて見ると、村長がそのままの姿で祭壇の前に座っていた。驚いた村人が村長の肩に手をかけると、そのまま崩れて無くなってしまった。祈る姿のまま、焼かれて灰になっていた。」というものである[9]
嘉永噴火

1853年嘉永6年)、旧暦3月6日から鳴動が始まり、15日に大噴火。その後は小康状態を保っていたが、22日に東部から再度噴火。噴火時には「立岩熱雲」と呼ばれる大規模な火砕流が発生したが、文政噴火を知る住民たちはいち早く避難していた上、火砕流も当時集落のなかった洞爺湖方向へ流下したため、大きな被害はもたらさなかった[6]。この噴火は27日に終息し、翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。一方、火山学者の田中館秀三は、「大有珠の溶岩ドームそのものは寛文噴火以前から存在したが、その当時は低くて山麓からは見えなかった。嘉永の噴火で急成長し、山麓からも見えるようになった」と推測している[6]

江戸時代の噴火はいずれも山頂からのもので、多量の噴出物を一気に放出する、いわゆるプリニー式噴火だった。また、いずれも火砕流と火砕サージの発生が見られ、被害の多くは火砕サージの熱風による家屋の焼失である。1909年、明治噴火の直前に洞爺湖上から撮影された有珠山。当時の大有珠溶岩ドーム(写真左側)には「立岩」と呼ばれる独立した岩塊があり、その形状から「土瓶の口」とも呼ばれた。
明治噴火「四十三山」も参照

1910年明治43年)7月25日、北西麓の金比羅山で噴火が始まった。まもなく北東麓の東丸山にかけての地域で次々に火口が開き、その合計は45個に及んだ。マグマが洞爺湖付近の地下水と遭遇して水蒸気爆発を起こしたものだった。一部の火口からは熱泥流が発生し、これに巻き込まれた1人が死亡。噴火は10月まで続き、11月頃には終息した。なお、1903年5、6月の鳴動は前兆現象と考えられる。北麓では地殻変動が起こり、最大約150 m 隆起して新たな山を形成した。この山は明治新山、あるいは明治43年にちなんで四十三山(よそみやま)と呼ばれてる。

この噴火活動により、火口に近い洞爺湖岸では温泉が湧出するようになった。これが洞爺湖温泉の始まりとなっている。
1944年 - 1945年噴火「昭和新山」も参照


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