有珠山
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1663年寛文3年)以降の活動はケイ酸(SiO2)を多く含んだ粘性の高いマグマによるもので、噴火前には地殻変動群発地震を発生し、噴火に伴って溶岩ドームや潜在ドームによる新山を形成するのが特徴となっている。

20世紀の100年間で4度も噴火活動が観測された、世界的に見ても活発な活火山である。
噴火の歴史

主に山体崩壊前の活動、山体崩壊後の活動に分けられる。
山体崩壊以前

有珠山が形成されたのは約1万5千年 - 2万年前と考えられている[5]。約11万年前に活動した洞爺カルデラの形成後、カルデラ内や周辺では約5万年前中島が形成されており、それに引き続いての活動である。

この時代の有珠山は、活動の最初期は安山岩マグマによる爆発的な噴火(長和テフラ)であったが、以後は玄武岩質安山岩?玄武岩マグマを繰り返し噴出し、溶岩流及びスコリアが堆積した。これらの活動によって、カルデラ南壁付近に有珠山の元となる成層火山(有珠外輪山溶岩)と、スコリア丘(ドンコロ山)が形成された。
山体崩壊

約7千年 - 8千年前に山体崩壊が発生。その際に南側に口を開けた直径約1.8 kmの馬蹄形カルデラ(有珠外輪山)が形成された[5][注 1]。また、南麓で岩屑なだれ(善光寺岩屑なだれ)が発生した。岩屑なだれは大小の流れ山を作った他、内浦湾(噴火湾)にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくった[5]。以後火山活動はなく、江戸時代まで活動を休止したと考えられている。
山体崩壊以降

山体崩壊後は長く活動を休止していたが、1663年寛文3年)を境に突如として噴火活動を再開する。山体崩壊前の活動が玄武岩質安山岩?玄武岩マグマを噴出する比較的静穏な噴火だったのに対し、山体崩壊後は流紋岩?デイサイトマグマを噴出する爆発的な噴火となっている。なお、『松前年々記』や松浦武四郎の『東蝦夷日誌』など一部資料には「慶長十六冬十月臼岳焼」との記録が見いだされるが、これは同年1611年に発生した慶長三陸地震を混同したものと考えられ、現在では有珠山の噴火記録としては認められていない[6]
寛文噴火

文献記録に残る有珠山噴火のうち最大規模の噴火[注 2]松前藩江戸幕府に提出した報告書『松前志摩在所山焼申儀注進之事』によると1663年8月12日(寛文3年7月11日)から8月15日まで微震が続いたのち、8月16日(旧暦7月14日)の明け方より山頂カルデラより流紋岩マグマによるマグマ水蒸気噴火が発生。8月17日にはプリニー式噴火に移行し、膨大な量の軽石や火山灰を噴出、山麓の家屋が焼かれ住民5人が死亡した。その後、8月18日以降は再びマグマ水蒸気噴火に移行した。活動は8月末(旧暦7月末)まで続き、鳴動は東北庄内地方にまで伝わった。さらに津軽弘前でも鳴動に続いて天地が暗くなり、空から長さ3、4の毛が雪のように降ってきたという。これは火山噴出物の一種・ペレーの毛と考えられる。この噴火の噴出物は膨大な量で現在の壮瞥町で3 m、白老町では1 m の厚さに積もったほか、海面にも大量の噴出物が浮いて降り積もり、沖合2,700(約5 km)まで陸地のようになった[6]。さらに噴出物によって山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような状の地形となった。

この噴火による総噴出量は、見かけ体積で2.78km3・マグマ換算(DRE)で1.1km3、火山爆発指数(VEI)は5と推定されている。

この寛文噴火をはじめ、同時期の北海道の南西部では渡島駒ケ岳1640年)、樽前山1667年)と火山の大噴火が頻発していた。これら火山の降灰による環境悪化が、1669年に発生したアイヌの大規模蜂起「シャクシャインの戦い」の一因になった、との見解もある[7]
先明和噴火

寛文噴火のち、有珠山の噴火記録は100年ほど絶える。しかし2000年代初頭に実施された有珠山周辺の噴出物調査によれば18世紀前半頃に噴火活動が存在したことが判明している。


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