有楽町
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1910年明治43年)には山手線が延伸され、有楽町駅が開業。1933年昭和8年)に日劇が、1934年東京宝塚劇場がオープンし、有楽町は劇場街と化した。また、毎日朝日新聞社の本社と讀賣新聞社有楽町別館が置かれ、その界隈は「新聞街」と呼ばれていた[注釈 1]1960年頃の有楽町

戦後、第一生命ビルが接収され、連合国最高司令官総司令部 (GHQ) となった[7]。戦後の混乱期に、すし屋横丁が出来、また街娼が集まるようになる一方で[注釈 2]、続々と映画館が誕生した。1951年、東日本初の民放ラジオ局であるラジオ東京(放送局としては現:TBSラジオ、会社としては現:TBSホールディングス)が開局し、1961年まで毎日新聞東京本社内に本社機能を置いていた。1960年のニッポン放送旧社屋

1954年深夜放送オールナイトニッポン」でおなじみのラジオ局、ニッポン放送が本社を設けた。また、ニッポン放送の子会社として設立されたフジテレビ1962年まで本社機能を置いていた。

1957年には讀賣新聞が経営する讀賣会館のテナントとしてそごう東京店がオープン。そのコマーシャルソングの「有楽町で逢いましょう」をビクターフランク永井が歌った。また、そごうの東京進出に一役買っていた大映映画がキャンペーンのための同名の映画を京マチ子主演で製作した。映画も歌もヒットし、有楽町の名が全国に広まった。1965年、すしや横丁および周辺が整理されて東京交通会館が開業した。

1966年、千代田区は住居表示に関する法律の実施基準により「有楽町」の「町」をとり「有楽」という地名に変更しようとしたところ[注釈 3]マスコミ各社の反対により、「有楽町」の町名のまま住居表示が実施されることとなった[8]

1972年2月1日、日本初のパーキングメーターが稼働開始。有楽町二丁目のニュートーキョー横などに32基が設置され、同月中に銀座一帯に拡大していった。当時の料金は40分まで100円[9]

1980年代に入ると、新旧交替が始まった。1981年(昭和56年)から有楽町の顔とも言われた朝日新聞社と日劇の建物が解体され[注釈 4]1984年有楽町センタービル(通称・有楽町マリオン)がオープン、新たなシンボルが誕生した。2000年平成12年)には有楽町そごうが閉店し、その後に新たにビックカメラがオープンした。また、有楽町駅前の再開発が行われ、2007年10月には丸井などの入店する新ビル「有楽町イトシア」が開業した[注釈 5]
世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目世帯数人口
有楽町一丁目・二丁目13世帯18人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[11]

丁目番地小学校中学校
有楽町一丁目全域千代田区立千代田小学校千代田区立麹町中学校
千代田区立神田一橋中学校
有楽町二丁目全域

交通

鉄道駅

JR山手線有楽町駅

JR京浜東北線(有楽町駅)

JR京葉線東京駅)丸の内3丁目に所在

東京メトロ銀座線銀座駅中央区銀座3・4丁目に所在

東京メトロ丸ノ内線(銀座駅)中央区銀座4丁目に所在

東京メトロ日比谷線日比谷駅・銀座駅)


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