有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)7月から翌天正7年(1579年)10月19日にかけて行われた籠城戦。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発する。伊丹城の戦いとも呼ばれている[注釈 1]。 天正6年(1578年)7月、三木合戦に参戦し、羽柴秀吉の軍に属していた荒木村重は戦線を離脱し、居城であった有岡城(伊丹城)に帰城、織田信長に対して謀反を起こした。荒木村重錦絵図/伊丹市立博物館蔵 荒木村重の謀反に驚いた信長は、その糾明の使者として、明智光秀、松井友閑、万見重元を有岡城に派遣した。光秀の娘は村重の嫡男・荒木村次の妻となっていたため、親戚の縁で選ばれたと考えられている。これを聞いた高槻城の高山右近も有岡城へ説得に向かい、村重が信長から受けた恩義や、信長に勝つのは不可能なこと、敗北した際には厳罰が下るであろうことを説いた。右近はまた、彼らの疑念を解くために、すでに村重に2名の人質を差し出していたにもかかわらず、さらに長男まで人質として預けた[3]。 村重は一旦はこれらの説得を聞き入れ、母親を人質に釈明すべく、息子と共に安土城へ向かった。しかし、道中の茨木城に立ち寄った際、家臣から通達を受ける。『立入左京亮入道隆佐記』[要文献特定詳細情報]によると「安土城に出向くのはもってのほか、安土城に行って切腹させられるより、摂津国で一戦に及ぶべき」と中川清秀に引き止められたとしている。フロイスの「日本史」によると、村重の家臣らは「自分たちは信長につく気はなく、ただちに引き返してこない場合、他の者を領主とする」と言ってきたという[3]。これを受け、村重は不本意ながらも有岡城へ戻り、信長への逆意を明らかにした。 信長と対決するにあたり、村重は足利義昭、毛利輝元、顕如のもとに人質と誓書を差し出し、同盟を誓った。『本願寺文章』[要文献特定詳細情報]によると顕如への誓書として、
開戦の経緯
本願寺と一味の上は善悪については相談、入魂にすること。本願寺の要求には承諾すること。織田信長を倒し、天下の形勢がどのようになろうとも、本願寺は荒木を見捨てないこと
知行については本願寺は口出ししない。また本願寺の知行分については異存はない。百姓門徒については荒木が支配すること。本願寺は干渉しない