月面着陸
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1963年には、ケネディが副大統領になったジョンソンに、月計画の潜在的な技術的・科学的利益を調査してほしいと求めた。これに対してジョンソンは最先端の医療躍進や宇宙から撮られた地球の写真を引き合いに出し、利益は限られたものであるものの、NASAの科学者達と力を合わせれば強力な実例となると結論付けた。しかし計画が進展するにあたり、社会事業へ更に資金を費やすべきだとする左派の政治家や、軍事費に力を入れたい右派の政治家達からの批判を打破する必要があった。これに対しては、科学的な報いやソビエトによる宇宙支配の恐怖へつけこんだ持論を強調することで、ケネディとジョンソンはなんとか世論を揺り動かすことができた。1965年までには、58パーセントものアメリカ国民がアポロ計画を支持し、これより2年前から33パーセントも上昇していることがわかった。ジョンソンが大統領に選出された1963年以降も、ケネディがもとより望んでいたように、計画への支援継続が行われ1969年の成功へ結びついたのである。
ソ連の戦略[ソースを編集]ソビエト連邦のソユーズ。写真のようなロケットが、地球の軌道へ物体を運送する初の確実な輸送手段となった。詳細は「ソ連の有人月旅行計画」を参照

そのころ、ソビエト連邦は月面着陸計画への態度を決めかねていた。ソビエトの指導者であったニキータ・フルシチョフは他のいかなる力によっても「敗北」することを好まなかったが、そうした多額の費用を必要とする計画もまた望んでいなかった。1963年10月、彼はソビエト連邦が「宇宙飛行士による宇宙航行は現在は計画していない」と述べた上で、競争から落後したわけではないという主張を付け加えた。

同時期に、ケネディがソビエトとアメリカ双方の宇宙飛行士で月面着陸を行い、より良き気象衛星の開発を行うとする種々の共同計画を打診していた。フルシチョフは、この試みでケネディがソビエトの宇宙開発技術を盗もうとする意図があると疑義を抱き、提案を退けた。ロシア連邦宇宙局の主任デザイナーであったコロリョフは、宇宙飛行士を搭乗させて月面着陸を行うことができる、ソユーズ宇宙船とN-1発射ロケット開発計画の推進を始めた。フルシチョフはコロリョフの設計局1966年の月・地球間有人飛行へ向けて2つの指示、現存するボストークの技術の修正と、プロトン発射台とゾンド宇宙船の建設に着工とを指示した。1964年、新たなソビエトの指導者がコロリョフの月面着陸計画への奮闘を後押しし、全有人宇宙飛行計画を彼の指示の元で実行するよう命じた。しかしコロリョフの死や1967年に行われた最初のソユーズの飛行の失敗と共に、ソビエト連邦による有人月面着陸計画は破綻をきたすこととなった。ソビエトは月着陸船を建造し、アレクセイ・レオーノフらを含む宇宙飛行士を選定したが、1969年N-1ロケットの発射が失敗に終わり、月着陸計画は遅延に苦しんだ挙句キャンセルとなった。
アポロ11号の初着陸[ソースを編集]

アメリカの探査機より先にソビエトの無人惑星探査機が月に達していたが、1969年7月20日に有人の月着陸船イーグル号(英語版)着陸によって、アメリカ人宇宙飛行士ニール・アームストロングが月の表面を歩いた史上初の人物となった。アームストロングは宇宙司令船パイロットのマイケル・コリンズと、月着陸船パイロットのバズ・オルドリンからの後援を受けたアポロ11号計画の司令官及び船長であった。この人類初の月面着陸という歴史的な瞬間は、全世界5億人を超える人々がテレビなどのメディアを通して視聴したという。時事問題を扱うコメンテーターからは、この出来事が20世紀において最も鮮明な瞬間の一つであると広く理解され、またアームストロングが月面へ足を踏み出した際に最初に発した、

「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind)」

という名言もまた同様に記憶に残るものである。着陸全体の実際の手記などはウェブサイト、 ⇒アポロ計画月面日誌も参照されたい。

宇宙飛行士達はその後月面にアメリカ合衆国の国旗を立て、それに敬礼するバズ・オルドリンは写真に収められた。アームストロングが最初に降り立つ人物になることは、当初の計画から既に重要なものだったはずと人々に信じられているが、実は原案では月着陸船のパイロットであるオルドリンが最初に降り立つよう計画されていた。また、印字した金属板が、未だ月面に残る月着陸船に取り付けられたままである。この銘板は、続く月面着陸へのアメリカの心象を表していた。これにはリチャード・ニクソン大統領による署名と共に、「Here men from the planet earth first set foot upon the Moon July 1969 AD. We came in peace for all mankind(西暦1969年7月、我等惑星地球より来たれり。全人類の平和を希求してここに来れり) ⇒[1]」と刻まれている(銘板には船員であるニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンの署名も入っている)。
日本による月面着陸[ソースを編集]

2024年1月25日、JAXASLIMの月面着陸による成果をプレスリリースにて発表した。[4]JAXAが成功目標としていた小型軽量な探査機で精度100 m 以内の高精度着陸を達成。太陽電池による発電が開始されていないため内蔵バッテリーで地球との通信が行なわれていると発表した。また、小型観測機のLEV-1LEV-2(SORA-Q)の放出に成功している。月周回軌道から見た地球、1968年12月22日(NASAより)
月面着陸の他の側面[ソースを編集]

他の国際間競争とは違い、宇宙開発競争は領土拡張問題には依然として直接影響を及ぼさないままでいる。月面への着陸に成功後、アメリカは月のいかなる部分も所有する権利を明確に放棄した。

1940年代、アーサー・C・クラークは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}専門家[誰?]がナンセンスだとして退けた[要出典][5]、「人類は2000年までに月に到達するだろう」とする発想を、小説『宇宙への序曲』に書いている(無論、小説は小説であって予言ではないし、予言として書かれたものでもないが)。ニール・アームストロングが着陸した1969年、アメリカ側[誰?]はクラークを「我々を月へ導く必要不可欠な知的原動力を与えてくれた」と述べている。

2006年8月16日AP通信はNASAがアポロ11号計画で月面を歩いた映像を収録する、低速度走査テレビジョン用のテープの原物を紛失したと報じた。しかし、2006年11月1日になってコスモス・マガジン誌は、この低速度走査テープが、オーストラリア西部パースにあるカーティン工科大学の、物理学棟にある小さな海洋科学実験室で発見されたと報道した。当時の原物テープのうちの一つは、分析のためNASAへ送られている。
有人月面着陸計画の一覧[ソースを編集]

アポロ11号 ― 1969年7月16日、人類史上初の有人月面着陸(着陸は7月20日)。

アポロ12号 ― 1969年11月14日、人類初の精密な有人月面探査。

アポロ14号 ― 1971年1月31日マーキュリー・レッドストーン3号の単独宇宙飛行士、アラン・シェパードが月面を歩く。

アポロ15号 ― 1971年7月26日月面車ルナ・ローバーによる初の月面探査実施。

アポロ16号 ― 1972年4月16日、初めて月面高地へ着陸。

アポロ17号 ― 1972年12月7日、最後のアポロ計画。初めて夜間に打ち上げが行われ、地質学者による探査が行われた。

ルナ・ランダー・チャレンジ[ソースを編集]詳細は「en:Lunar Lander Challenge」を参照

NASAのセンテニアル・チャレンジの一環として行われる。様々な分野の個人や団体が参加する事によって切磋琢磨する。優秀な成績の参加者にはXプライズ財団や航空宇宙関連の企業などから賞金が出る。
Google Lunar X Prize[ソースを編集]詳細は「Google Lunar X Prize」を参照

各国の参加者達が月面車を送り込む。
ルネックス計画[ソースを編集]

ルネックス計画

種類空軍の地下基地
施設情報
管理者アメリカ
歴史
建設1967年以降に予定
使用期間計画中止
駐屯情報
駐屯部隊21人

ルネックス計画とは1958年、アポロ計画に先がけて立案されたアメリカ空軍による有人月面着陸計画である。1961年立案の最終的な月探査計画では1968年に総工費750万ドルで21人が滞在する空軍基地を月面地下に建設する計画だった。

最終的なルネックス計画とアポロ計画の最大の違いの一つは、月面着陸船は分離せずにそのまま宇宙飛行士を乗せて離陸し地球に帰還する方式であるということだった(アポロ計画原案ではルネックス計画と類似の直接降下、上昇する方式だった)。
詳細[ソースを編集]
関連する宇宙船[ソースを編集]ルネックス宇宙船の模式図


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