月百姿
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注釈^ 読みについては二通りがある。実作品に付された題名も、「つきの百姿」が12点(1・14・41・55・59・86・87・88・89・92・93・95)、「月の百姿」が1点(96)、「つき百姿」が7点(37・39・42・66・75・78・94)、残り80点と目録は「月百姿」と一定しない。『別冊太陽』138頁と『月岡芳年 血と怪奇の異才絵師』97頁では「つきのひゃくし」、『芳年妖怪百景』88頁では「つきひゃくし」とルビを付けている。
^ 幕末の加賀藩下で、河北潟の干拓事業を請け負った商人銭屋五兵衛は、湖に毒を流したとの疑いをかけられ牢に繋がれた。五兵衛の長男喜太郎も連座で囚われ、喜太郎の娘ちかは、雪の浅野川に飛び込み父の赦免を願った、という伝説による。
^平家物語』巻五「室泊遊君歌事」による。平氏一門が厳島神社への参詣の途中、播磨国室津に停泊した晩、多数の遊女たちが小舟で平氏の船団へと寄ってきた。その中に客の声がかからず船上で和歌を詠じていた遊女がおり、興味深く思った平清盛が召し上げた、という物語。従って本来は室津での出来事だが、芳年は「いつくしまの月」と題し、画中に厳島神社の大鳥居を配している。
^ 手友梅(て の ゆうばい)は、備中国吉城主三村政親の子とされる人物。眼病により盲目となったが、毛利氏との戦において自軍に利あらずとみて敵陣に駆け入り、勇戦の後に討死したという。
^源平盛衰記』巻三「左右大将事」「有子入水事」による。徳大寺実定厳島神社に参籠した際に目をかけられた内侍有子は、実定の帰京に付き従ったが、所詮は叶わぬ恋に最期は住吉津の沖で海に身を投げた、という物語。
^ 一とせは、柳下亭種員撰『新撰歌俳百人撰』(嘉永2年/1849年)に記される遊女。江戸本所周辺の河原で一夜の情をひさぐ夜鷹であったが、人に求められると優れた和歌を披露したという。
^十訓抄』「五節の命婦の琴」による。五節の命婦は麗景殿の女御に仕えた女官で、の名手であったが、世を捨て嵯峨野に隠棲していた。源経信ら数名が彼女の荒れ家を訪れ琴の演奏を請うたところ、その調べに涙を流さぬ者はなく、普段まるで涙を見せない源俊明までが袖を絞るほどに泣いた、という物語。
^ 湯浅常山常山紀談』(元文4年/1739年)に記される話。長篠の戦い中、織田徳川連合軍の酒井忠次隊が、長篠城救援のため武田方の鳶ヶ巣山砦を急襲した際、酒井隊の兵士戸田半平重之は夜戦にもかかわらず念を入れて銀の髑髏を象った指物を背に挿して出陣した。すると砦を焼く炎で半平の指物が輝き、指物を用意していなかった他の兵士達を出し抜いて先駆けの功に預かることができたという逸話。
^ 藤原定家仮託の書と言われる毎月抄に「去る元久頃、住吉参籠の時、汝月明らかなりと冥の霊夢を感じ侍りしによりて、家風にそなへむために明月記を草しおきて侍る」との記述がある。
^ 深見十左衛門(後に剃髪して自休と号した)は江戸時代前期のかぶき者侠客
^ 柳宗元撰『龍城録』に記される故事。の人趙師雄が羅浮山(現広東省の山)に遊んだ際、山中での木の精である美女に出会った話。
^ 伴蒿蹊『近世畸人伝』(寛政2年/1790年)に載る逸話。小野お通に仕えていた千代という女が商家に嫁いだものの夫との仲は冷えきり、これを気にかけたお通は千代の夫に長文のとりなしの文を送り、夫婦の関係は修復された。しかしその直後に千代の夫は亡くなってしまい、千代は悲しみのあまり京の各所をお通の文を携えてそぞろ歩くようになったという。
^ 玉渕斎(ぎょくえんさい)は水谷緑亭撰『畸人百人一首』(嘉永5年/1852年)に紹介される人物。主君への諫言で勘気を蒙り浪人となった男で、ある時上野に花見に出かけ、袖に降りかかる花びらを払ったところ、酔客らに「そんな粗末な着物で花が降りかかるのを嫌うこともあるまい」とあざ笑われた。すると玉渕斎は即興で見事な短歌を詠んで返し、酔客らをやり込めたという。
^ 明石義太夫は『絵本太閤記』などに伝えられる人物で、明智光秀の臣。本能寺の変を知り、急ぎ畿内に引き返そうとする羽柴秀吉中国大返し)を未然に暗殺するため、義太夫と仲間は尼崎付近で待ち構えたが失敗した。一人生き延びた義太夫は暗殺の失敗を光秀に報告し、光秀からは生きて忠節を尽くすよう諭されたが、主君の命運を左右する重大な失策の責任を取り腹を切ったという。
^ 水木辰之助は、元禄年間に上方歌舞伎で人気を博した女形
^ 中国の伝説では、月には桂(モクセイを指す)の巨木が生えており、時にその月の桂の実が地上にまで降ってくるとされる。
^ 江戸時代、将軍家の慶事に際して江戸城本丸御殿で催された町入能(まちいりのう)の日の早朝を描いた作品。この日だけは町人が本丸御殿南庭から猿楽を見物することが許された。見物の町人には江戸城への立ち入り許可の印としてが一本ずつ手渡され、傘を受け取った者達が我先にと場所取りに急いでいる。

参照^ a b 岩切2010、52-53頁。
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