月百姿
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81. 弓取の数に入るさの身となれは おしまさりけり夏夜月 明石儀太夫[注釈 14]
82. きぬたの月 夕霧
83. 孤家月
84. かしかまし野もせにすたく虫の音よ 我たになかくものをこそおもへ
85. 金時山の月
86. たのしみは夕顔たなのゆふ涼 男はてゝら女はふたのして
87. 法輪寺の月 横笛
88. 花山寺の月
89. 雪後の暁月 小林平八郎
90. 調布里の月
91. つきの発明 宝蔵院
92. 月の四の緒 蝉丸
93. 三日月の頃より待し今宵哉 翁
94. 桜さくすみたの川にこくふねも くれて関屋に月をこそ見れ 水木辰の助[注釈 15]
95. 嵯峨野の月
96. 姥捨月
97. 梵僧月夜受桂子[注釈 16]
98. むさしのゝ月
99. 猿楽月[注釈 17]
100. いてしほの月
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 読みについては二通りがある。実作品に付された題名も、「つきの百姿」が12点(1・14・41・55・59・86・87・88・89・92・93・95)、「月の百姿」が1点(96)、「つき百姿」が7点(37・39・42・66・75・78・94)、残り80点と目録は「月百姿」と一定しない。『別冊太陽』138頁と『月岡芳年 血と怪奇の異才絵師』97頁では「つきのひゃくし」、『芳年妖怪百景』88頁では「つきひゃくし」とルビを付けている。
^ 幕末の加賀藩下で、河北潟の干拓事業を請け負った商人銭屋五兵衛は、湖に毒を流したとの疑いをかけられ牢に繋がれた。五兵衛の長男喜太郎も連座で囚われ、喜太郎の娘ちかは、雪の浅野川に飛び込み父の赦免を願った、という伝説による。
^ 『平家物語』巻五「室泊遊君歌事」による。平氏一門が厳島神社への参詣の途中、播磨国室津に停泊した晩、多数の遊女たちが小舟で平氏の船団へと寄ってきた。その中に客の声がかからず船上で和歌を詠じていた遊女がおり、興味深く思った平清盛が召し上げた、という物語。従って本来は室津での出来事だが、芳年は「いつくしまの月」と題し、画中に厳島神社の大鳥居を配している。
^ 手友梅(て の ゆうばい)は、備中国吉城主三村政親の子とされる人物。眼病により盲目となったが、毛利氏との戦において自軍に利あらずとみて敵陣に駆け入り、勇戦の後に討死したという。
^ 『源平盛衰記』巻三「左右大将事」「有子入水事」による。徳大寺実定が厳島神社に参籠した際に目をかけられた内侍有子は、実定の帰京に付き従ったが、所詮は叶わぬ恋に最期は住吉津の沖で海に身を投げた、という物語。
^ 一とせは、柳下亭種員撰『新撰歌俳百人撰』(嘉永2年/1849年)に記される遊女。江戸本所周辺の河原で一夜の情をひさぐ夜鷹であったが、人に求められると優れた和歌を披露したという。
^ 『十訓抄』「五節の命婦の琴」による。五節の命婦は麗景殿の女御に仕えた女官で、琴の名手であったが、世を捨て嵯峨野に隠棲していた。源経信ら数名が彼女の荒れ家を訪れ琴の演奏を請うたところ、その調べに涙を流さぬ者はなく、普段まるで涙を見せない源俊明までが袖を絞るほどに泣いた、という物語。
^ 湯浅常山『常山紀談』(元文4年/1739年)に記される話。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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