月光仮面
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初期には『月光王者』などの案もあったが、語呂や言葉の意味などから『月光仮面』となった[7][11]

放送日は2月24日からと決定していたものの、年頭の段階では何も決定しておらず、西村は慌ただしくスタッフやキャストの人選を行わなくてはならなかった。そこで西村は以前在籍した「綜芸プロダクション」で伊藤大輔に師事し、助監督や編集を務めてきた船床定男を26歳の若さで監督に抜擢。続いて東映東京撮影所の大部屋俳優だった大瀬康一を、オーディションによって抜擢した。大瀬の抜擢の最大の理由は、小林によると「声がいい」からという理由だった[15]。また「子供に好かれそうな顔であったから」ともしている[7][11]。大部屋俳優を主演に添えたのは出演料を安く抑えるためでもあった[16]

撮影スタッフも予算不足を考慮し、西村の映画会社時代の人脈から、「テレビ映画」制作の意欲に燃える無名の若者たちが集められた。その他のスタッフも社内で持ち回りとなり、フィルム編集は西村が行なった。月光仮面や悪人の仮面・覆面姿は美術スタッフの小林晋によるもので、いつでも代役を起用できるようにとの苦肉の策でもあった。実際に、どくろ仮面を宣弘社の社員が演じたこともある[7]

こうしてスタッフ陣が整い、撮影に入ったのは放送3週間前を切った、1月31日のことだった。プロデューサーも監督も主演も、すべて初の経験者という陣容であり、また「宣弘社プロ」自体が初の番組制作だった。極端な予算と人員不足、手作りの番組制作は、今日では考えられないような様々な逸話を残している。

制作費については、KRTから2万円、武田薬品から3万円の援助を受け15万円とし、その後30分枠になった際に70万円に引き上げられた[7]
製作エピソード

月光仮面の吹き替えを演じた野木小四郎は、たまたまロケを見物していて「下手だなあ」とつぶやいたところを船床監督に聞かれたのがきっかけで、演技に関しては全くの素人ながら、翌日から月光仮面の衣装をつけスタントをおこなうようになった[17]。野木はのちにプロデューサーに転身した。

撮影スタジオも低予算で確保できないため、小林の自宅をスタジオ代わりにし、応接間が「祝探偵事務所」、車庫がどくろ仮面のアジトなどに使われ、撮影中は小林夫人らは邪魔にならないよう旅館に泊まっていた。後に宣弘社の三代目社長となる小林の長男・小林隆吉は、急遽撮影することになったシーンに新聞配達員役で出演している[18]

それ以外は白金の小林邸近辺で、オールロケで撮影された。東京タワーが映りこんでいることも多く、第1部では建設途中であったが、第4部では完成している[19][11]。大瀬の証言によれば警視庁の屋上で撮影を行ったこともあるという[20]

予算の都合で機材もろくに揃わなかったため、当初はフィルモというゼンマイ式の小型16mmカメラが使われた[注釈 2]。フィルモはフィルム1巻で28秒しか撮影できないものだったが、これがかえってテンポの速いカット割りを生み、ドラマ展開にスピーディな印象を与える効果を挙げた。30分番組になってからも制作費は約70万円と低予算は変わらず、移動撮影用のレールが用意できなかった。カメラはズーム可能な16mmが導入されたため、移動撮影に代えてズーム撮影を多用している。一方で、当時は35mmフィルムが主流であったためスタッフはコマの小さい16mmを扱い慣れておらず、ピストルの発射音が合わないなどのこともあった[21]

自動式拳銃プロップガンは電気式で一発ずつしか撃てなかったため、連射するシーンでは隠し持っていた別の銃に持ち替えて撮影していた[22]。マシンガンのプロップガンは炎と煙が出るだけのもので、『'60年代 蘇る昭和特撮ヒーロー』ではガスバーナーを改造したものではないかと推測している[23]

バイクはホンダから提供された[21]。撮影用のほか50ccのカブも借用し、現場の移動用に用いられた[21]

野外場面でのバックグラウンドには頻繁に鳥の鳴き声が使われており、それもほぼ全てが同じものである。主に三光鳥の鳴き声で、その間から時鳥がさえずり聞こえるというものである。この効果音は、これらの鳥類の生息環境でない場所でも平気で使われている。また夜のシーンになるたびに、夜間を強調するため毎回同じ犬の遠吠えが使われている。効果音は東宝から無断借用されたものもあるという[21]

武田薬品工業の1社提供による『タケダアワー』第2回作品であり、作品中に「武田薬品の栄養たっぷりのプラッシーですね」などといった台詞や武田薬品の広告が度々登場する[24]
反響

川内作詞、小川寛興作曲の主題歌『月光仮面は誰でしょう』(歌は近藤よし子、キング子鳩会)と共に子どもたちの圧倒的な支持を受け、平均視聴率は40%、最高視聴率は67.8%(東京地区)を記録し、放送期間は当初の3ヶ月から大幅に延長された[16]。放送時間には銭湯から子どもの姿が消えたという[7]。『月光仮面は誰でしょう』のレコードは当時の子ども向け楽曲としては異例の10万枚以上[25]を売り上げる大ヒットとなった。

宣弘社社長の小林利雄は、当初は制作を間に合わせるのに手一杯で反響を気にしていなかったが、次第に手応えを実感するようになったという[7]。小林は東芝に子供たちが集まりそうな場所へ街頭テレビの設置を依頼し、これも人気を博した[7]


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