最後の戦い
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注釈^ 「監督・脚本[2]」。「監督[1]
^ 「製作・脚本[2]」。カタカナ表記は「ピエール・ジョリヴェ[1]」、「ピエール・ジョリベ[2]」。
^ 「Producteur delegue」。カタカナ表記は「コンスタンタン・アレグザンドロフ[1]」、または「コンスタンチン・アレクサンドルフ[2]」。
^ 「製作・脚本[2]」。『Filmmakers (1) リュック・ベッソン』では「製作」にはクレジットしていない[1]。カタカナ表記は「ピエール・ジョリヴェ[1]」、または「ピエール・ジョリベ[2]」。
^ カタカナ表記は「ソフィー・シュミット[1]
^ アメリカでの公開名は「The Final Combat[3]」、「The Last Battle」。
^ 台詞はないが、呻き声や、効果音・BGMはある。
^ ベッソンは18歳のとき、徴兵により、アルプス山中で1年間の兵役に任に就いた[8]。映画作りを目指すベッソンにとってこの1年間は完全に「無駄」な時間であったという[8]。自分の夢を叶えるためにはまったく無益と思われる軍務に辟易したベッソンは、映画作りをしたいという衝動を抑えきれず、1週間の休暇を利用して『Le Petite Siren』を撮影したのである[8]。この作品はモノクロの10分の短編[7]。夜の海辺で女性が男を海遊びに誘う[7]。その後、その男は帰ってこない[7]。これが何度か繰り返される[7]。この女に惹かれた男性が、もしも自分の愛が本物であるならば人魚が迎えに来るはずだと信じ、重りを携えて海の底に向かう[7]。本作は後の『グラン・ブルー』の原型とされている。ただしこの作品は世に出ず、「幻のデビュー作」となった[9]。なお「Siren」はギリシア神話のセイレーンのことだが[8]、「Le Petite Siren」は、一般的には「人魚姫」と和訳される。
^ ベッソン本人はこの作品を「どうしようもない駄作」と述懐している[8]
^ ベッソンはこのときのことを根にもっており、映画監督して有名になったあとも、当時の窓口の「大まぬけ」あてに、新作映画の「非招待状」を送ったという[8]
^ 始めは書類のコピー係や食事の配達をしていたという[10]。最初期に「コピー取り」として参加した作品が、フランスで撮影中の『007 ムーンレイカー』だった[10][11]
^ この間、2か月ほどの短期間ではあるが、ベッソンはハリウッドにも渡って映画産業の下働きをしている[10][12]。ここでも主な仕事はコピー取りだったという[10]
^ 製作費を提供するという人物がいたのだが、実際に撮影に入る直前になって約束を反故にしたという[15]。ベッソンは、後になって考えれば、「かえってよかった」と語る[15]。当時の自分たちは、まだ『サブウェイ』のような大掛かりな作品をつくるには経験不足だったという[15]
^ フランソワ・クリュゼにも出演を依頼したが、スケジュールが合わないといって「丁重に」断られたという[16]
^ 感光層の不良で、専門的には「スタチックマーク」と呼ばれる。

出典^ a b c d e f g h i j k 『Filmmakers (1) リュック・ベッソン』第4部(巻末)p3-4「最後の戦い」
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『ぴあシネマクラブ2 外国映画編 2000-2001』、p446「最後の戦い」
^ a b c d e f g 株式会社スティングレイallcinema、最後の戦い。2020年1月29日閲覧。
^ a b c d e f g キネマ旬報キネマ旬報映画データベース、 ⇒最後の戦い
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