最初の大陸横断鉄道
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ネブラスカ州オマハを出発し、同州(エルクホーン、グランドアイランド、ノースプラット、オガララ)を横断し、コロラド準州(ジュールスバーグ)を通って再度ネブラスカ州(シドニー)に入り、ワイオミング準州シャイアンララミー、グリーン・リバー、エバンストン)、ユタ準州オグデン、ブリグハムシティー、コリン)を通過して、同州のプロモントリーサミットでセントラル・パシフィック鉄道と接続する。

セントラル・パシフィック鉄道の長さは 1,110 kmである。カリフォルニア州サクラメントを出発し、同州(ニューカッスル、トラッキー)を抜け、ネバダ州リノ、ワズワース、ウィネムカ、バトルマウンテン、エルコ、ウェルズ)を横断し、ユタ準州のプロモントリーサミットでユニオン・パシフィック鉄道と接続する。

サクラメントとオークランドの間 212 kmは、ウェスタン・パシフィック鉄道(Western Pacific Railroad)が建設したが、同社は1870年にセントラル・パシフィック鉄道に吸収された。オークランド・サンフランシスコ間は鉄道連絡船で結ばれていたため、サンフランシスコ・フェリービルが西の起点となっていた。
建設

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東からの建設

東からは、ユニオン・パシフィック鉄道がオマハを起点に鉄道建設を始めた。ユニオン・パシフィック鉄道の大口出資者となったトーマス・クラーク・デュラントは、南北戦争のときに北軍の将校のグレンビル・ドッジと組んで、南部の綿花を密輸することで財を成したような人物であった。デュラントは鉄道の経路の選定にあたって、自分の所有する土地や投資先の会社にとって都合の良い場所を通させた。さらに、デュラントは建設工事の入札を操作したり、連邦政府からの補助金を流用したりして不正な利益を上げた。また、デュラントはグレンビル・ドッジその人を主任技術者に任命した。
インディアン戦争

ユニオン・パシフィック鉄道の経路は大平原で、平地であったため建設は順調に進んだが、インディアンの領土にさしかかると問題が発生した。この地の平原インディアンたちは、この頃には彼らの土地を没収され、インディアン移住法に基づく強制移住によって保留地(Reservation)に追いやられていた。さらに、鉄道の路線はその保留地を横断する形となって、狩猟民族である彼らは狩り場をさんざんに荒らされることとなった。インディアンたちは「鉄の馬」の建設を白人による新たな侵略ととらえていた。また、平原のインディアンの生活の糧だったバッファローが「設備を壊すから」と手当たり次第に駆除された。数千単位で移動するバッファローの群れが通過するのに、数日かかることはざらだったのである。こうしてスー族をはじめとするインディアン部族はしばしば建設労働者を攻撃し、ユニオン・パシフィック鉄道は治安維持のために狙撃手を配置せねばならなかった。ショーショーニー族など、自らの保留地への鉄道敷設を歓迎した部族もあった。
西からの建設

西からは、セントラル・パシフィック鉄道がサクラメントを起点に鉄道建設を始めた。サクラメント・バレーでの工事は順調に進んだが、シエラネバダ山脈にさしかかると難航した。セントラル・パシフィック鉄道は中国苦力を中心とする移民を建設労働者として大量に雇い入れ、移民たちは冬のシエラネバダ山脈に降る雪にも耐えて工事を進めた。

山脈を貫くトンネルの建設のために、セントラル・パシフィック鉄道は当時発明されたばかりで安全性の低かったニトログリセリン爆発物を使用した。これにより建設のスピードは上昇したが、事故による労働者の死亡率も上昇した。被害の大きさに、セントラル・パシフィック鉄道ではより安全な工法を開発せざるを得なかった。ある日、セントラル・パシフィック鉄道の労働者たちは1日に 16 km(10マイル)を敷設するという記録を打ち立てた。これを記念する記念碑が現在でも線路脇に建っている。

開通の時が近づくと、双方の会社とも、連邦政府からより多くの補助金を受け取るために、自社の建設する線路をできるだけ長くしようと争った。見かねた連邦政府は、両社の線路の接続する場所と日時を決めた。両社から調査団が派遣され、互いの会社の建設状況を監視した。

雪の中で働く中国人建設労働者リーランド・スタンフォードらを乗せて開通記念式典へ向かう「ジュピター」号

建設労働者

ユニオン・パシフィック鉄道の建設労働者は、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒などであった。セントラル・パシフィック鉄道の建設労働者は中国人移民が多かった。当時、中国人移民はカリフォルニアの金鉱山やクリーニング業、コックなどに従事していた。当初、中国人は体力が弱いため肉体労働に従事させられないという偏見があったが、これが偏見であるとわかるとカリフォルニア中から中国人移民がかき集められた。建設労働者の標準的な日当は3ドルであったが、中国人移民の日当はずっと安く抑えられた。後に彼らはストライキを起こし、若干の昇給を得た。全体のうち、直接に線路の敷設に従事した労働者はおよそ25%で、他に鍛冶、大工、石工、測量技術者、御者、電信技手、コックなど多様な職種が必要とされた。
開通

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