曾我兄弟の仇討ち
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^ 五郎は勝手に下山し元服したことで勘当されていた[34]
^ 2度目の訪問では伊出の屋形に至らず曾我の里へ戻っている[59]
^ 兄弟が狩庭に潜み祐経を狙う箇所のこと
^ 範頼は8月2日に突如頼朝の元に謀反を否定する起請文を提出しているが、10日には頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛され、範頼は17日に伊豆国に配流されている。配流の際に範頼は狩野宗茂と祐経の弟宇佐美祐茂によって連行されており、20日には曾我兄弟の異父兄弟である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)が範頼の縁坐として誅殺されている。『保暦間記』によると、事件の直後、鎌倉ではしばらくの間頼朝の消息を確認できず、頼朝の安否を心配する妻政子に対して、巻狩に参加せず鎌倉に残っていた範頼が「私が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られたとする説もある。
^ 『吾妻鏡』建久四年(1193年)5月2日条「北条殿駿河国に下向したまふ。これ狩倉を覧んがために、かの国に赴かしめたまふべし」
^ 『吾妻鏡』建久四年(1193年)5月15日条「北条殿はあらかじめその所に参候せられ、駄餉を獻ぜしめたまふ」
^ 保立は頼朝が祐経と共謀した証拠はないものの、工藤祐経の弟である宇佐美祐茂や同族の工藤茂光が早くから頼朝と結んでその挙兵に参加していること、工藤の本拠である伊豆国狩野(鹿野)に祐経の従者が隠れ住んで襲撃の機会を狙っていたことを挙げ、頼朝と祐経の間に何らかの関わりがあったことを否定できないとしている。
^ 曽我物語において、兄弟が狩場にて工藤祐経を狙うも伏木(または躑躅根)に足をかけ落馬する場面のこと
^ 現存する舞曲の本文は「越前幸若系」と「大頭系」に大別され[102][103]、幸若舞曲の台本を読み物化した版本は大頭系に含まれる[104]。版本はまず古活字版が成立し[105]、江戸時代初期には挿絵を含む揃物として刊行された(「舞の本」)[106]
^ 「切兼曽我」と「一満箱王」は同一である[112][113]
^ 富士野の各御家人の屋形に張られた幕紋群のこと
^ 建久4年(1193年)5月28日に曽我五郎・十郎の兄弟が富士の裾野で工藤祐経を討った際に傘を燃やして松明とした故事から、毎年5月28日に、小田原市に所在する城前寺付近の家々から古い傘を集めて本堂の裏側にある曽我兄弟の墓前に積み上げて火を放ち、衆僧が列を作って読経をしながらその火を巡って行道・供養する「傘焼き祭り」が行なわれていたが[148]、2011年に寺側からの申し出により祭りでの開催は中止となり、同年より城前寺檀信徒を中心に、城前寺保育園年長組が十郎、五郎、虎御前、稚児として衆僧と共に参列し傘焼き供養会を継続している[149]。尚、保存会では下曽我駅前や公園など市内各所で関連行事を続行している[150]
^ 鹿児島市では毎年7月に郷中教育の一環として、曾我兄弟の仇討ちの故事に倣い、和傘を燃やす「曽我どんの傘焼き」を開催している[151]

出典^ 本郷和人・五味文彦編、『現代語訳 吾妻鏡6』180頁、吉川弘文館、2009
^ 海老沼真治「「富士北麓若彦路」再考--『吾妻鏡』関係地名の検討を中心として」56頁『山梨県立博物館研究紀要』5、2011年
^ 木村茂光「頼朝政権と甲斐源氏」19頁、『武田氏研究』第58号、2018年
^ a b 坂井(2014) p.209
^ 福田(2002) p.525
^ 坂井(2014) pp.179-180
^ 坂井(2014) pp.171-176
^ 坂井(2014) p.175
^ 坂井(2014) p.176
^ 坂井(2014) p.194

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