曾我兄弟の仇討ち
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

源頼朝は信濃国三原野・下野国那須野での狩りを行った後、梶原景時を呼び以下のように言及した[25][26]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}東国には狩庭多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし。その野を狩らむ(巻六)

頼朝は駿河国富士野で巻狩を行うことを宣言、景時に伝えた。景時はこれを広く通達した。富士野での巻狩を聞き及んだ五郎は、以下のように述べた。富士野の御狩と承る(中略)敵を我らが手に懸けずは、我らが身をも我らが命をも敵のため捨ててこそ、悪霊・死霊とも成て御霊の宮とも崇められめ(巻六)

五郎はこれを好機と捉え喜び、これまで仇討ちを達成できなかったのは隙を伺っていたためであり[27]、今度は頼朝の前であっても恐れず陣内の侍にも怯むこと無く断行するべきであると述べる[28]。そして自らの御霊化を宣言した。このように富士野の地に至る前より兄弟は死を覚悟していた[29]。ここから兄弟は富士野で祐経を討つために行動していくこととなる。
富士野(伊出の屋形)到着後仁田忠常次の日は伊出の屋形に着かせ給ふ。(巻七)
既に御狩庭始まりければ、各々互ひに目を懸けて、敵の助経に告げ知らす(中略)次の日よりは三日の巻狩とぞ聞こえる(巻第八)

頼朝一行と曽我兄弟は伊出の屋形に到着した。この間も兄弟は祐経の動向に目を光らせ続けていた。3日連続の巻狩が始まると、二十番の狩り[注釈 7]が行われた。一番は相模国の愛敬三郎と本間次郎であった[31]。巻狩の第三箇日に当りける日は、終日に?へども少しの隙こそなかりけれ。(中略)上の峯より大鹿の大王二頭曽我の人々の前に出で来れり。(中略)かかる処に、上の峯より猪の大王下りけり。いづくにて何人にや射られけん、矢二つ負ひながら、瞋り瞋て鎌倉殿の御前に懸りける。(中略)是をその日の見物として、鎌倉殿は御屋形へ入り給へば、曾我の人々も同じく屋形へ入りにけり(巻八)

兄弟は祐経を狙い続けるがその隙が無い。すると二頭の大鹿が兄弟の前に出てきたが、兄弟は故意にこれを射外した。今度は源頼朝の前に猪が走り懸けて来たが、新田四郎忠経が仕留めた[32]。これをその日の見物として頼朝は御屋形へ入り、兄弟も屋形に入っていった。仇討ちの直前、兄弟は伊出の屋形で母に宛て手紙を書く。その末尾には建久4年癸丑5月28日の夜半には、駿河の国富士山の麓伊出の屋形において、慈父報恩のため命を失ひ畢るなり(巻九)

とあった[33][注釈 8]。五郎は母からの勘当[注釈 9]を許されたことに感謝し、また兄弟共に母の後代を祈った[35]。十郎は綾の小袖・村千鳥の直垂・赤銅作りの太刀・黒鞘巻の刀等を携え、五郎は蝶が描かれた直垂・兵庫鎖の太刀・赤木柄の短刀等を携える。そして5月28日の夜半、仇討ちは決行された[36]
仇討ちの決行五郎と五郎丸虎御前(江戸風俗東錦絵』のうち「祐成出立の図」)

侍所に入った兄弟は、寝ていた工藤祐経と往藤内[37]の姿を確認する。十郎は太刀で祐経の肩を刺した上でや、殿、宮藤左衛門尉(註:工藤祐経)、これ程の大事の敵を持ちながら、汚くも寝入りるものかな。起きよや、や、殿(巻九)

と起こす。起きた所を十郎は重ねて斬り、五郎もそれに加わり討ち果たす。往藤内は太刀の音に驚いて起き上がり兄弟を諭すも、十郎は「沙汰に及ばず」と述べ同じく討ち果たした。

そして、伊出の屋形では騒ぎを聞き付けた次の10人の人物と斬り合いとなった(十番切)[38]。その人物は大楽弥平馬允・愛敬三郎・岡部五郎・原三郎・御所黒矢五・海野小太郎行氏加藤太郎・橘河小次郎・宇田五郎・臼杵八郎である。

まず大楽弥平馬允は十郎に斬られたため逃げ、愛敬三郎は五郎に右肩を斬られ退いた。岡部五郎は一打も出来ないまま十郎に指を斬られたため退く。次に原三郎が五郎に肋骨二本を斬りつけられ退く。やがて御所黒矢五が走り向かって行ったが十郎が追いかけて来たため逃げたところ、後頸を斬られ足早に逃げた。

海野小太郎行氏は十郎と打ち合いとなり、ここに加藤太郎が加わった。十郎が二人を相手する展開の中で五郎が加勢し、五郎に胸を斬られた加藤は退いた。直後に海野は五郎に背中を斬られ退き、橘河小次郎は五郎に臂を斬られ退いた。宇田五郎は十郎と打ち合いとなり、右肘を斬られ退く。臼杵八郎は五郎と打ち合いとなった末に首を刎ねられた[39]

暫く時をおいて用樹三郎が押し寄せてきたが、五郎に右肩を斬られ退く。次に一河別当次郎宗光が押し寄せたが五郎に腿を斬られ退いた(用樹三郎や一河別当次郎宗光らは十番切に含まれず[40]番外という扱いがなされる[41])。そして新田四郎との打ち合いとなる。新田四郎が小鬢を刎て次の刀に右の小臂を切てけり(中略)屍をば駿河の国富士野の裾、伊出の屋形に曝しつつ、名をば後代に留むべしと、面も替らず打合けり(中略)その後は程もなく気も留りぬ(巻九)

十郎は新田四郎と壮絶な斬り合いとなり、その様子は「互ひに打物の上手共」と評される。新田は十郎に髪と臂を斬られるが怯むことがなく「名をば後代に留むべし」と意気込み顔も変えず打ち合いを続けた[29][42]。しかし既に多くの敵と対峙していた十郎は疲労が甚だしく、やがて四つん這いになったところで片腹と右臂を原三郎に斬られた。そこで新田に致命傷を負わされ息絶える[43]。十郎は最後の言葉として五郎に「君の御前近くうち上つて具に見参に入り参らせよ」と述べ、頼朝の御前へ向かうよう伝えた[44]。御屋形の御前なる大幕を打挙げて樋と入る。五郎も連いて入らむとする処に、五郎丸と云ふ童のありけるが、大力なり(中略)五郎丸叶はじやと思ひけむ、「敵をばかくこそ懐け、得々」と呼りければ、五郎これを聞て腰の刀を捜れども運の尽きぬる上はいづれの戦にや落としたりけむ、腰にはなかりけり。力及ばずして組み合ふ処に…(巻九)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:125 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef