以下、真名本『曽我物語』のうち曽我兄弟が仇討ち舞台の地である富士野へ向かい、同地で本懐を遂げた後に葬送される箇所を記す。梶原景時 源頼朝は信濃国三原野・下野国那須野での狩りを行った後、梶原景時を呼び以下のように言及した[25][26]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}東国には狩庭多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし。その野を狩らむ(巻六) 頼朝は駿河国富士野で巻狩を行うことを宣言、景時に伝えた。景時はこれを広く通達した。富士野での巻狩を聞き及んだ五郎は、以下のように述べた。富士野の御狩と承る(中略)敵を我らが手に懸けずは、我らが身をも我らが命をも敵のため捨ててこそ、悪霊・死霊とも成て御霊の宮とも崇められめ(巻六) 五郎はこれを好機と捉え喜び、これまで仇討ちを達成できなかったのは隙を伺っていたためであり[27]、今度は頼朝の前であっても恐れず陣内の侍にも怯むこと無く断行するべきであると述べる[28]。そして自らの御霊化を宣言した。このように富士野の地に至る前より兄弟は死を覚悟していた[29]。ここから兄弟は富士野で祐経を討つために行動していくこととなる。 頼朝一行と曽我兄弟は伊出の屋形に到着した。この間も兄弟は祐経の動向に目を光らせ続けていた。3日連続の巻狩が始まると、二十番の狩り[注釈 7]が行われた。一番は相模国の愛敬三郎と本間次郎であった[31]。巻狩の第三箇日に当りける日は、終日に?へども少しの隙こそなかりけれ。(中略)上の峯より大鹿の大王二頭曽我の人々の前に出で来れり。(中略)かかる処に、上の峯より猪の大王下りけり。いづくにて何人にや射られけん、矢二つ負ひながら、瞋り瞋て鎌倉殿の御前に懸りける。(中略)是をその日の見物として、鎌倉殿は御屋形へ入り給へば、曾我の人々も同じく屋形へ入りにけり(巻八) 兄弟は祐経を狙い続けるがその隙が無い。すると二頭の大鹿が兄弟の前に出てきたが、兄弟は故意にこれを射外した。今度は源頼朝の前に猪が走り懸けて来たが、新田四郎忠経が仕留めた[32]。これをその日の見物として頼朝は御屋形へ入り、兄弟も屋形に入っていった。仇討ちの直前、兄弟は伊出の屋形で母に宛て手紙を書く。その末尾には建久4年癸丑5月28日の夜半には、駿河の国富士山の麓伊出の屋形において、慈父報恩のため命を失ひ畢るなり(巻九) とあった[33][注釈 8]。五郎は母からの勘当[注釈 9]を許されたことに感謝し、また兄弟共に母の後代を祈った[35]。十郎は綾の小袖・村千鳥の直垂・赤銅作りの太刀・黒鞘巻の刀等を携え、五郎は蝶が描かれた直垂・兵庫鎖の太刀・赤木柄の短刀等を携える。そして5月28日の夜半、仇討ちは決行された[36]。 侍所に入った兄弟は、寝ていた工藤祐経と往藤内[37]の姿を確認する。
富士野に到着するまで
富士野(伊出の屋形)到着後仁田忠常次の日は伊出の屋形に着かせ給ふ。(巻七)
既に御狩庭始まりければ、各々互ひに目を懸けて、敵の助経に告げ知らす(中略)次の日よりは三日の巻狩とぞ聞こえる(巻第八)
仇討ちの決行五郎と五郎丸虎御前(江戸風俗東錦絵』のうち「祐成出立の図」)