曾我兄弟の仇討ち
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一方GHQによる検閲で仇討ち物は忌避されたため[14]、一般への認知に影響を与えたと指摘される[15][16]
吾妻鏡の記述

曾我兄弟の仇討ちは、富士の巻狩の際に富士野神野にて発生した。『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。

事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた[17]

傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となり、宿侍が走り出す。曾我兄弟と頼朝の御家人の間で戦闘が始まり、平子有長・愛甲季隆吉川友兼加藤光員海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎といった武将らは傷を負った。また宇田五郎も兄弟に討たれ、十郎(兄、祐成)は仁田四郎忠常と対峙した際に討たれた[18]

五郎(弟、時致)は将軍頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留めた。この間に時致は御所五郎丸に取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。その後、和田義盛梶原景時が検死を行った[18]

仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された[19]

30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた[20]。6月1日には祐成の妾のを始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎は放免されている[注釈 3][注釈 4]。6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘(現在の神奈川県小田原市[注釈 5]の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}仇討ち時に没した人物の墓・霊地[注釈 6]

曾我兄弟霊地[22]

工藤祐経の墓[23]

王藤内の墓[24]

曽我物語の記述

以下、真名本『曽我物語』のうち曽我兄弟が仇討ち舞台の地である富士野へ向かい、同地で本懐を遂げた後に葬送される箇所を記す。梶原景時
富士野に到着するまで

源頼朝は信濃国三原野・下野国那須野での狩りを行った後、梶原景時を呼び以下のように言及した[25][26]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}東国には狩庭多しといへども、富士野に過ぎたる名所はなし。その野を狩らむ(巻六)

頼朝は駿河国富士野で巻狩を行うことを宣言、景時に伝えた。景時はこれを広く通達した。富士野での巻狩を聞き及んだ五郎は、以下のように述べた。富士野の御狩と承る(中略)敵を我らが手に懸けずは、我らが身をも我らが命をも敵のため捨ててこそ、悪霊・死霊とも成て御霊の宮とも崇められめ(巻六)

五郎はこれを好機と捉え喜び、これまで仇討ちを達成できなかったのは隙を伺っていたためであり[27]、今度は頼朝の前であっても恐れず陣内の侍にも怯むこと無く断行するべきであると述べる[28]。そして自らの御霊化を宣言した。このように富士野の地に至る前より兄弟は死を覚悟していた[29]。ここから兄弟は富士野で祐経を討つために行動していくこととなる。
富士野(伊出の屋形)到着後仁田忠常次の日は伊出の屋形に着かせ給ふ。


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