また、虎御前のもの(虎が石)も全国に点在する[152]。「虎が石」が存在する背景に、説話集や謡曲に見られる「虎退治譚」が関係するという指摘がある[153]。
一方曽我兄弟から見て仇にあたる工藤祐経の墓所・祠類は少なく、富士野が位置する静岡県富士宮市に存在する例が指摘されるのみである。富士宮市上井出に工藤祐経の墓があり、その他大悟庵の裏手に墓石があったとされるが、現在は不明である[154]。
また富士大宮司屋敷の裏通に「工藤垣内(くどうかいと)」と呼ばれる通りがあった。『駿河記』によると、富士山本宮浅間大社の社人が通りにある矢塚を掘り甕を発掘し、甕の中のものを持ち出した。するとその社人は狂気し、自らを工藤祐経とし、甕の中のものを戻し元のようにしなければ殺すと叫んだという。社人の家族らは慄きこれを元に埋め戻し、その場所は「工藤塚」と呼ばれるようになったという[155]。 同事件が基となり成立したとされる季語に「虎が雨」がある。曾我の雨・虎が雨・虎が涙とも呼称され、陰暦5月28日頃に降る雨を指す[156]。虎の悲しみの涙や、仇討ちが起こった5月の天候と結び付けられて発生した言葉とされる。 また「虎」自体に降雨を引き起こすイメージが存在し、虎と雨が結びついて「虎が雨」という言葉が成立したとする見解もある[157]。「曽我の雨」については吾妻鏡と真名本で相当する部分が確認される[158]。
関連用語
関連作品
映画
『曾我兄弟狩場の曙』(1908年)
『曾我十番斬』(1916年)
『永禄曾我譚』(1917年、小林)
『小袖曽我』(1920年)
『夜討曽我』(1923年、帝キネ)
『曽我』(1927年)
『日活行進曲 曽我兄弟』(1929年)
『夜討曽我』(1929年、マキノ)
『仇討日本晴 孝の巻 曾我兄弟』(1931年、帝キネ)
『富士の曙 少年曾我』(1940年)
『曽我兄弟 富士の夜襲』(1956年、東映、監督:佐々木康)
テレビドラマ
『曾我兄弟』(1959年、日本テレビ)
『草燃える』第28回「富士の巻狩」(1979年、NHK大河ドラマ)
『鎌倉殿の13人』第23回「狩りと獲物」(2022年、NHK大河ドラマ)
小説
高橋直樹『天皇の刺客』(2006年、文庫題:『曾我兄弟の密命―天皇の刺客』)文藝春秋
坂口螢火『曽我兄弟より熱を込めて』(2023年)幻冬舎ルネッサンス
漫画
湯口聖子 『夢語りシリーズ 天翔ける星』秋田書店
歌謡曲
長編歌謡浪曲曽我の討入り (三波春夫)
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 暗殺に関わった郎従の大見小藤太・八幡三郎を伊東祐親はすぐさま討ち果たしている
^ 『吾妻鏡』によると、祐親は石橋山の合戦後、平氏軍に加わる準備をしていたところを捕縛される[10]。
^ 事件後の動向は以下の通りである(吾妻鏡)。6月1日に曾我祐成の弟にあたる僧(律師)が尋問され、また曾我祐信は宥免された。6月3日には仇討ち時に逐電した常陸国の者たちの所領が没収された。7月2日には律師が自害している。
^ その後虎は6月18日に箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家を遂げ信濃善光寺に赴いた。その時19歳であったと記されている(『吾妻鏡』)
^ 中世の曽我荘の中心は、現在の曽我谷津地区(下曽我)とされる[21]。
^ 静岡県富士宮市に所在
^ 20回に及ぶ武士による狩りの披露。合手組(左右で二人ずつ)の20番であるため、計40人となる[30]。
^ 十郎の言葉。五郎も同様の文言を記している
^ 五郎は勝手に下山し元服したことで勘当されていた[34]。
^ 2度目の訪問では伊出の屋形に至らず曾我の里へ戻っている[59]
^ 兄弟が狩庭に潜み祐経を狙う箇所のこと
^ 範頼は8月2日に突如頼朝の元に謀反を否定する起請文を提出しているが、10日には頼朝の寝床に潜んでいた範頼の間者が捕縛され、範頼は17日に伊豆国に配流されている。配流の際に範頼は狩野宗茂と祐経の弟宇佐美祐茂によって連行されており、20日には曾我兄弟の異父兄弟である原小次郎(北条本『吾妻鏡』や『曽我物語』では「京の小次郎」)が範頼の縁坐として誅殺されている。