曽我部和恭
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当時はバンドを最初に結成したのは高校2年生の時であり、クラスにギターの上手い人物がいた[2]。あのころにしてみれば『パイプライン』、『ダイヤモンドヘッド』などは最高のテクニックを要する曲だったわけであり、ギターを見ずにほかの人物を見ながら弾いていた[2]。あのころは「こいつは天才だ」と思い、悔しくてやり始めたわけだったという[2]。ギタリストになろうとは全然思っておらず、人間の指が5本しかないが、弦が6本もあることから、「こいつは人間が弾けるもんじゃない」と思っていた[2]。ただし「とにかく何曲か覚えたいな」と思っていたという[2]。セミプロのような形でバンドをしていた[2]。しかしテクニック的な問題でリズム&ブルースまでついて行けたが、ニューロックになってから少しついて行けなくなり、バンドから脱退[2]。歌の勉強をしようと思い、前述のとおり、日本テレビタレント養成所に入ったという[2]
キャリア

熊倉一雄納谷悟朗の指導を受け、テアトル・エコーの舞台公演に出演するとともに、研究生時代からアニメ作品や洋画吹替の声優に端役として参加した[4]。初舞台は井上ひさし作『11ぴきのねこ』のにゃん吾役[8]。声優デビュー作は1972年公開のアニメ映画パンダコパンダ』のおまわりさん役[10]1974年に『破裏拳ポリマー』でアニメ作品への初主演を果たした[4]。「タイムボカンシリーズ」では『ゼンダマン』の主人公・鉄ちゃん / ゼンダマン1号に内定しており、主題歌のレコーディングにも台詞収録で参加していたが、番組初収録直前に体調不良となり、降板した[11](なお、第49話にはコジロー役でゲスト出演している)。その2年後には同シリーズ続編の『ヤットデタマン』に時ワタル / ヤットデタマン役で主演を果たしている。

1977年には野島昭生神谷明と飲みに行った席で演奏したギターがあまりにも上手だったのがきっかけで、古谷徹古川登志夫らを呼び込み声優バンド「スラップスティック」を発足[12][13][14][15][16]リードギター作詞作曲を担当していた[12][13][14][15][16]。私生活では1980年6月に結婚[4][17]。テアトル・エコーの正所属となり舞台の演出も手掛けていたが[18]、1990年代に青二プロダクション[7]へ移籍した。

1970年代には、神谷、中尾隆聖内田直哉福沢良一らと共に演劇・音楽ユニットフォーインワンとして活動をしていたことがある(曽我部は演出を担当)[19]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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