曹長
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廃藩置県の後、1871年(明治4年8月)の陸軍においても下等士官の最上級であった[注釈 7]。少尉の下、軍曹の上にあり、官等は15等のうち曹長は十一等とし、権曹長は十二等とした[21]。曹長・権曹長を含め官等表に掲載する大尉以下軍曹までを判任とした[22]明治5年1月の官等表改正後も同年2月陸軍省設置後も曹長・権曹長は判任である[23] [24] [25]

1872年1月13日(明治4年12月4日)に兵部省の指令で定めた鎮台分営士官心得勤辞令書式によると、曹長・権曹長の仮任を命ずるときはその達書は隊長名によって陸軍曹長・権曹長の心得を以て当分相勤める可き事とし、曹長・権曹長の正員を補するのは帥の決を取って命ずるので鎮台本営によって陸軍曹長・権曹長を申し付ける事としており、少尉以上の任官とは異なる取り扱いをしている[26]

陸軍徽章を増補改定しているが、曹長は軍帽・袖章とも大1条・小2条、権曹長は軍帽・袖章とも大1条・小1条で変わりない[27]

1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表で曹長・権曹長の俸給は、分課として砲兵・騎兵・歩兵、所属として近衛鎮台があり、更に権曹長には等級として一等・二等があり、これらの組み合わせで俸給額に違いがあった、また列外増給として下副官には増給の規定がある[28]

1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、明治25年5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[29] [30]、これらのうち曹長・権曹長に相当するものには次のようなものがある[31] [32]

曹長・権曹長心得[31] [26] [33]
明治3・4・5年の頃にあって各その本官の職を取る。本官とは、曹長は下副官、権曹長は小隊副長の職を取る[32]

五・六等下士並び試補[31]
明治元年以降、明治4年頃までのものであって五等下士は曹長、六等は権曹長相当であって各その職を取り、試補はこれに等しいもの[32]

總嚮導試補[31]
明治2年頃にあって總嚮導[注釈 8]は下副官、試補はこれに等しいもの[32]

裨官並び補裨官[31]
明治2年頃にあって裨官[38]並び補裨官[39]は権曹長の勤務を命じ小隊副長の職を取らせていたもの[32]
1873年(明治6年)5月の曹長

1873年(明治6年)5月8日の陸海軍武官官等表改正で権曹長を廃止した[40]。曹長は少尉の下、軍曹の上であり、官等は15等のうち十一等で下士の最上級である[40] [注釈 9]。曹長・軍曹の人事手続きには伍長との違いがあった[注釈 10]

権曹長を廃止したため、従前の曹長は陸軍武官表[注釈 11]の表面の曹長一等、権曹長は曹長二等を命じることになる[46]。このとき改定した曹長の俸給は、一等は従前の曹長と同額、二等は従前の権曹長の一等と同額となる[28] [47]。また、徽章を改正するまで当分は一等の曹長は従前の曹長の章、二等の曹長は従前の権曹長の章を使用した[48]。従前の列外書翰掛権曹長については追って編制替えの上で軍曹を以て書翰掛に充てるところ、改定するまで当分の内は二等の曹長とし[49]、下副官については従前は曹長の分課であったことから一等の曹長に相当するところ、二等の曹長を以て下副官に充てるときは上級の職務代理とした[50]。また、従前は権曹長は小隊副長の職を取るとしていたことろ[32]1874年(明治7年)11月30日改正の陸軍歩騎砲工輜重兵編制表には小隊副長の配置は記載されておおらず歩兵連隊編制表では各中隊に配置する曹長は1人だけである[51]1880年(明治13年)の歩兵内務書によれば曹長が小隊副長の職を奉ずるとされた[52] [53]。なお、曹長一等・曹長二等と表記することがあるが[54]、官名は曹長(軍曹・伍長も同様)であり給料に関係するためやむを得ない場合の表記である[55]

1874年(明治7年)11月30日改正の部隊編成では、曹長は歩兵連隊給養掛・大隊下副官・中隊附、騎兵大隊下副官・大隊附、山/野砲兵大隊下副官・小隊附(本隊)、工兵輜重兵小隊附である[51]

1874年(明治7年)に北海道屯田憲兵を設置することを定め[56]、1875年(明治8年)3月4日に開拓使の中で准陸軍曹長の官等を定め、その官等は正官と同じとした[57] [58]

1875年(明治8年)11月24日に改正した陸軍武官服制では、下副官は曹長の職務の一分課であるけれども、下副官曹長の袖章は金線1条内記打3条で他の曹長よりも内記打を1条多くして区別した[59]

1875年(明治8年)12月17日に定めた陸軍給与概則では、曹長の俸給は科目として砲・工、騎・輜、歩、等級として一等・二等があり、これらの組み合わせで俸給額が決まる[60]。職務増俸については曹長は下副官・給養掛を務める場合に増俸がある[60]

1877年(明治10年)2月2日から陸軍各隊の下副官に在職中の曹長は准士官を以って処遇することになる[61] [62] [注釈 12]。1877年(明治10年)2月26日に陸軍武官服制を追加並びに改正し、諸兵下副官の服制は上等監護と同様の准士官のものに改められた[63]

1877年(明治10年)1月に官等を17等に増加しているが[64]1879年(明治12年)10月10日達陸軍武官官等表では曹長は引き続き十一等としており、このとき官名に憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各兵科の名称を冠することにした[65]

1882年(明治15年)2月8日に開拓使を廃止したことから[66]、屯田兵の準陸軍曹長を陸軍省に管轄させた[67] [58]

1883年(明治16年)5月4日太政官第21号達で陸軍武官官等表を改正し、憲兵・歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵の各兵科曹長の官名から陸軍の2字を除いた[68] [69]


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