曹長
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版籍奉還の後、1870年10月12日明治3年9月18日)に太政官の沙汰により海陸軍大佐以下の官位相当を定めたときに、陸軍では少尉以上に加えて曹長及び権曹長(ごんそうちょう[2])の官位相当を定め、曹長は従八位相当とし、権曹長は正九位相当とした[3] [注釈 2] [注釈 3] [注釈 4] [注釈 5]

1871年2月11日(明治3年12月22日)に各常備兵編制法を定めたときの歩兵大隊砲兵隊の中に曹長・権曹長を置いた[10] [11] [注釈 4]。曹長・権曹長と軍曹を総称して下等士官といいその下に伍長を置き、下等士官と伍長の四職は少佐が選抜して藩庁へ届出させ、下等士官の採用・離職・降級・昇級は毎年2回まとめて兵部省へ届出させた[10] [11]。このときの曹長は下等士官の最上級である。

1871年4月2日(明治4年2月13日)に御親兵を編制して兵部省に管轄させることになり[12]、また同年6月10日(同年4月23日)に東山西海両道に鎮台を置いて兵部省の管轄に属すことになり[13]、明治4年5月には兵部省による陸軍曹長の任官や権曹長を命じる例が見られる[注釈 6]

陸軍徽章で定めた軍服階級章では、下等士官の紐釦真鍮桜花、帽前面章は真鍮日章とした[17]。下等士官と兵卒は軍帽の周囲黄線、上衣の袖黄線でその階級を区別しており、曹長は軍帽・袖章とも大1条・小2条、権曹長は軍帽・袖章とも大1条・小1条である[18]。親兵についても曹長・権曹長を下等士官としており、その紐釦・帽前面章、軍帽・袖章は同様の区別をしている[19]
1871年(明治4年8月)の曹長

廃藩置県の後、1871年(明治4年8月)の陸軍においても下等士官の最上級であった[注釈 7]。少尉の下、軍曹の上にあり、官等は15等のうち曹長は十一等とし、権曹長は十二等とした[21]。曹長・権曹長を含め官等表に掲載する大尉以下軍曹までを判任とした[22]明治5年1月の官等表改正後も同年2月陸軍省設置後も曹長・権曹長は判任である[23] [24] [25]

1872年1月13日(明治4年12月4日)に兵部省の指令で定めた鎮台分営士官心得勤辞令書式によると、曹長・権曹長の仮任を命ずるときはその達書は隊長名によって陸軍曹長・権曹長の心得を以て当分相勤める可き事とし、曹長・権曹長の正員を補するのは帥の決を取って命ずるので鎮台本営によって陸軍曹長・権曹長を申し付ける事としており、少尉以上の任官とは異なる取り扱いをしている[26]

陸軍徽章を増補改定しているが、曹長は軍帽・袖章とも大1条・小2条、権曹長は軍帽・袖章とも大1条・小1条で変わりない[27]

1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表で曹長・権曹長の俸給は、分課として砲兵・騎兵・歩兵、所属として近衛鎮台があり、更に権曹長には等級として一等・二等があり、これらの組み合わせで俸給額に違いがあった、また列外増給として下副官には増給の規定がある[28]

1873年(明治6年)5月以前に用いられた各種名義の軍人について、当時の官制に於いて規定した明文がないものの、例えば心得、准官のような名義の者であっても当時は戦時に際して上司の命令を以て実際に軍隊・官衙等に奉職しその任務を奉じたことから、明治25年5月に陸軍大臣の請議による閣議に於いてこれらを軍人と認定しており[29] [30]、これらのうち曹長・権曹長に相当するものには次のようなものがある[31] [32]

曹長・権曹長心得[31] [26] [33]
明治3・4・5年の頃にあって各その本官の職を取る。本官とは、曹長は下副官、権曹長は小隊副長の職を取る[32]

五・六等下士並び試補[31]
明治元年以降、明治4年頃までのものであって五等下士は曹長、六等は権曹長相当であって各その職を取り、試補はこれに等しいもの[32]

總嚮導試補[31]
明治2年頃にあって總嚮導[注釈 8]は下副官、試補はこれに等しいもの[32]

裨官並び補裨官[31]
明治2年頃にあって裨官[38]並び補裨官[39]は権曹長の勤務を命じ小隊副長の職を取らせていたもの[32]
1873年(明治6年)5月の曹長

1873年(明治6年)5月8日の陸海軍武官官等表改正で権曹長を廃止した[40]。曹長は少尉の下、軍曹の上であり、官等は15等のうち十一等で下士の最上級である[40] [注釈 9]。曹長・軍曹の人事手続きには伍長との違いがあった[注釈 10]

権曹長を廃止したため、従前の曹長は陸軍武官表[注釈 11]の表面の曹長一等、権曹長は曹長二等を命じることになる[46]。このとき改定した曹長の俸給は、一等は従前の曹長と同額、二等は従前の権曹長の一等と同額となる[28] [47]。また、徽章を改正するまで当分は一等の曹長は従前の曹長の章、二等の曹長は従前の権曹長の章を使用した[48]。従前の列外書翰掛権曹長については追って編制替えの上で軍曹を以て書翰掛に充てるところ、改定するまで当分の内は二等の曹長とし[49]、下副官については従前は曹長の分課であったことから一等の曹長に相当するところ、二等の曹長を以て下副官に充てるときは上級の職務代理とした[50]。また、従前は権曹長は小隊副長の職を取るとしていたことろ[32]1874年(明治7年)11月30日改正の陸軍歩騎砲工輜重兵編制表には小隊副長の配置は記載されておおらず歩兵連隊編制表では各中隊に配置する曹長は1人だけである[51]1880年(明治13年)の歩兵内務書によれば曹長が小隊副長の職を奉ずるとされた[52] [53]


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