曹洞宗
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後花園天皇の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、応仁の乱以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ[5]。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、月舟宗胡卍山道白面山瑞方らが立て直しに取り組む。特に卍山道白は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「正法眼蔵」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた[6]。なお、元和元年(1615年)、江戸幕府より法度が出され永平寺總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。
宗政

宗教法人 曹洞宗
英語: Religious Corporation "Sotoshu"曹洞宗宗務庁
(及び経営している東京グランドホテル[7]
種類宗教法人
法人番号9010405001419
本部105-8544 東京都港区芝2丁目5-2 2階 [8]Tel.03-3454-5411(代表)
会長石附周行管長總持寺貫首2022年1月22日就任)
主要機関曹洞宗宗務庁
関連組織大本山永平寺, 大本山總持寺
ウェブサイトwww.sotozen-net.or.jp
www.sotozen.com
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曹洞宗内紛」も参照

21世紀初頭である現在、全国の曹洞宗寺院は「宗教法人曹洞宗」により包括されており、その本部事務所を「曹洞宗宗務庁」という[8]。曹洞宗に所属する約15,000ヵ所寺は、永平寺派の「有道会」と總持寺派の「總和会」に所属が二分されている。

曹洞宗としての宗派の長を「管長」といい、大本山永平寺および大本山總持寺の貫首(住職)がそれぞれ2年毎交互に就任する(西暦の偶数年の1月20日付けで任期満了となり、翌1月21日付で交代となる。なお、管長が任期中に示寂の場合は、後任の貫首が残任期間まで管長を務める慣例となっている)。閣僚にあたる内局の部長7名も両派でほぼ半数ずつ、宗議会議員(定数72名)も36選挙区ごとに両派から1名ずつ選ばれる。教団運営は管長の元で、宗務と事務が庁議(責任役員会)の決定に基づき執行される。また、内局(宗務執行機関)、宗議会(議決機関)、審事院(監正機関)の三機関が置かれている。「宗教法人曹洞宗」の代表役員は宗務総長といい、宗務執行機関としての法人を代表し、その事務その他の宗務を総理する。
著名な寺院
大本山(根本道場)

両大本山の住職を貫首といい、2人の貫首が2年交代で管長(宗門代表)となる。管長は、有資格者で立候補者から選挙によって選出される宗門最高の位階。

本山と、所属する寺院数 [1]本山江戸時代
(1750年代)現代
(1980年代)

永平寺1481,300

總持寺16,20013,850
総数17,50014,000

尊称として住んでいる場所にちなみ、永平寺貫首を不老閣猊下(ふろうかくげいか)、総持寺貫首を紫雲台猊下(しうんたいげいか)とも呼ぶ。

永平寺 - 福井県吉田郡永平寺町

貫首:南澤道人(みなみさわ どうにん)禅師

寺紋:久我山竜胆紋(久我竜胆紋・久我竜胆車紋)

寛元2年(1244年)に、道元が越前波多野義重の要請で開く。

永平寺東京別院(長谷寺) - 東京都港区

永平寺名古屋別院 - 愛知県名古屋市東区代官町

永平寺鹿児島出張所(紹隆寺) - 鹿児島県姶良市平松



總持寺 - 横浜市鶴見区

貫首:石附周行(いしづきしゅうこう)禅師

寺紋:五七桐紋

元亨元年(1321年)に、瑩山紹瑾能登の定賢律師の要請で石川県輪島市門前町に開く。明治31年(1898年)に火災で焼失し、明治44年(1911年)に現在地に移転。

總持寺祖院 - 明治38年(1905年)より元の地(石川県輪島市門前町)に復興

總持寺北海道別院(法源寺) - 北海道松前郡松前町松城


歴史的には正法寺岩手県奥州市)が奥羽二州の本山、大慈寺熊本県熊本市南区)が九州本山であった期間があるが、元和元年(1615年)の寺院法度により永平寺、總持寺のみが大本山となる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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