以上の主な法嗣は、以下のようになる。
洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷
鹿門自覚 - 普照一辨(青州希辨) - 大明僧宝 - 王山覚体 - 雪巌慧満 - 万松行秀 - 雪庭福裕・・・
丹霞子淳
宏智正覚(宏智派) - 自得慧暉・・・(東明慧日・東陵永?)・・・
真歇清了 - 天童宗? - 雪竇智鑑 - 天童如浄(- 道元)・・・
日本における曹洞宗道元
日本仏教における曹洞宗は鎌倉時代に始まる。道元は、臨済宗黄龍派の明全に随身した後、共に宋に渡り、天童山で曹洞宗の天童如浄(長翁如浄)に師事して開悟(身心脱落)して修行が終わり、1227年に帰国した。
宗祖・洞山良价から道元までの法嗣は、
洞山良价 - 雲居道膺 - 同安道丕 - 同安観志 - 梁山縁観 - 大陽警玄 - 投子義青 - 芙蓉道楷 - 丹霞子淳 - 真歇清了 - 天童宗? - 雪竇智鑑 - 天童如浄 - 道元
となる。
道元自身は自らの教えを「正伝の仏法」として、セクショナリズム的な宗派を否定したため、弟子たちには自ら特定の宗派名を称することを禁じていた(禅宗の一派として見られることにすら拒否感を示していた)。どうしても名乗らなければならないのであれば「仏心宗」と称するようにと示したとも伝えられる。
後に奈良仏教の興福寺から迫害を受けた日本達磨宗の一派と合同したことをきっかけとして、道元の入滅(死没)後、次第に禅宗を標榜するようになった。宗派の呼称として「曹洞宗」を用いるようになったのは、第四祖瑩山紹瑾(1268年-1325年)とその後席峨山韶碩(1275年-1366年)の頃からである。
日本における曹洞宗は、中国における曹洞宗の説とは違い、曹渓慧能と洞山良价の頭文字を取って曹洞宗と呼ぶのを定説としている。
「臨済将軍曹洞士民」といわれるように、臨済宗が時の中央の武家政権に支持され、政治・文化の場面で重んじられたのに対し、曹洞宗は地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まった。第四祖瑩山の時代に男女平等・女人救済の思想を教義としたため武家の女性が曹洞宗の信者となった[4]。曹洞宗の宗紋は久我竜胆車紋と五七桐紋である。 「正伝の仏法」を伝統とし、「南無釈迦牟尼仏」として釈迦を本尊と仰ぐが、各人が坐禅により万法に証せられる(悟る)ことを肝要とする。曹洞宗の坐禅は中国禅の伝統と同じく「只管打坐(しかんたざ)」(非思量の坐禅をすること)をもっぱらとしている(ただし、臨済宗のように公案禅をとる流派も一部にある。江戸時代のように多くの曹洞宗僧侶が、公案禅に参じた時もあった)。 『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』は、道元が帰国後、坐禅の仕方について著した指南書。四六駢儷体による表現がなされている。また、道元の著書である『正法眼蔵』は、道元の自らの悟り体験に基づき仏教全般について表現している。決して思惟による哲学ではない。 主によまれる経典 基本となる祖録 ご詠歌・和讃 正治2年(1200年)、京都久我家で生まれた道元は建保2年(1214年)出家し、園城寺・建仁寺で学ぶ。貞応2年(1223年) 明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受ける。天福元年(1233年)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、寛元2年(1244年) 傘松に大佛寺を開く。寛元4年(1246年) 大佛寺を永平寺に改め、宝治2-3年(1248年-1249年)、執権北条時頼、波多野義重らの招請により教化のため鎌倉に下向する。建長5年(1253年) 病により永平寺の貫首を弟子孤雲懐奘に譲り、京都で没する。 永平寺2世孤雲は道元が日ごろ大衆に語った法語をまとめた『正法眼蔵随聞記』を著し、道元の教えを記録し広めることにつとめた。道元の死後、遺風を守ろうとする保守派と、衆生教化のため法式も取り入れようとする開放派の対立が表面化する。文永4年(1267年)徹通義介に住職を譲るが、両派の対立が激化(三代相論)したため文永9年(1272年)孤雲が再任する。弘安3年(1280年)孤雲が没し徹通が再任するが内部対立を収拾できず、永仁元年(1293年)永平寺を出て大乗寺を開山する。 永平寺は4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。徹通の弟子瑩山紹瑾は1321年能登に總持寺を開山し、南朝後醍醐天皇より「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得る。応安5年(1372年)、永平寺も北朝後円融天皇から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受ける。總持寺開山瑩山紹瑾は弟子に恵まれ四哲と呼ばれた逸材を輩出した。 四哲の一人峨山韶碩も優れた弟子に恵まれた。太源宗真の門流は梅山聞本、如仲天ァなどを輩出し、北陸東海に教線を拡大した。通幻寂霊も通幻十哲と呼ばれる優れた禅僧を輩出、了庵慧明は最乗寺を開き東国に、石屋真梁は大寧寺を開き中国地方に教線を拡大した。無底良韶 後花園天皇の頃には、ほとんど全国に普及するまでに成長した曹洞宗だが、応仁の乱以降は衰退していき、僧侶の俗化が進んだ[5]。師僧選びは学徳より、地位や富が基準となり、法統の継承は寺院相続のための方便と化しつつあった。江戸時代に入ると、幕府や大名の支援で寺院そのものの復興が進むが、僧侶の頽廃は改まるどころか、ひどくなっていった。こうした中、月舟宗胡、卍山道白、面山瑞方らが立て直しに取り組む。特に卍山道白は、当時広まっていた、寺院の住職を継ぐことによって伝えられる法統(伽藍法)ではなく、道元が尊重した師僧から弟子へと伝えられる法統(人法)を重視する「宗統復古運動」を展開したことで知られる。また、「正法眼蔵」など宗典の研究、校訂、出版なども盛んに行われた[6]。なお、元和元年(1615年)、江戸幕府より法度が出され永平寺と總持寺は大本山となり、奥州正法寺と九州大慈寺は本山から外れた。 宗教法人 曹洞宗
教義
主な経典
『摩訶般若波羅蜜多心経』
『妙法蓮華経観世音菩薩普門品』
『妙法蓮華経如来寿量品』
『大悲心陀羅尼』
『甘露門』(施餓鬼会に際し読む)
『参同契』
『宝鏡三昧』
『舎利礼文』
『正法眼蔵』 - 道元が著述(未完。後に弟子が編集)
『普勧坐禅儀』 - 道元の坐禅についての著述
『伝光録』 - 瑩山の提唱を側近がまとめたもの 歴代の祖師の行履と悟りの契機を記述している
『修証義』 - 明治時代に『正法眼蔵』から文言を抽出して信者用に再編
梅花流詠讃歌
まごころに生きる(南こうせつ作詞・作曲の曹洞宗詠歌)
歴史が望まれています。
宗政
英語: Religious Corporation "Sotoshu"曹洞宗宗務庁