曹参
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なお、蓋公の師の楽臣公は、戦国時代の名将の楽毅の血縁である)[2]。また、魏勃ら有能な人材を登用した。斉国の丞相となって9年間で斉国は安定し、賢相として称えられた。
漢帝国の相国

恵帝2年(紀元前193年)、蕭何が死去したことを聞いた曹参はすぐに上京の準備をさせた。曹参の予想通りすぐに使者が来た。後任の斉国の丞相によくいいきかせて後を託した。曹参は蕭何と昔はとても仲がよかったが、将軍・丞相となってからは疎遠だった。しかし、蕭何が死ぬ間際に自分の後継に推薦したのは曹参だけであった。曹参は漢の相国となったが、劉邦と蕭何が定めたあらゆる事柄を変更しなかった。郡や国の役人の中から質朴で重厚な人柄の人物を選び、丞相の属官に任命した。役人のうちで言葉・文章が苛烈で名声を得たがるものは退けた。

曹参は昼も夜も豊醇な酒を飲み、政務に熱心には見えず、彼を訪ねたものは諌めようとしたが、暇もなく酒を飲まされ諌められなかった。曹参は人が小さな過失を犯したのを見ると、それを覆い隠し表沙汰にしないようにしたので相国府では事件は起きなかった。恵帝は、曹参が職務放棄しているのをいぶかり、そのようにするのは自分を軽視しているからだ、と考えていた。そこで曹参の子の曹?に自分の陰をちらつかせず諌めさせた。すると曹参は激怒し、わが子の曹?を200回むち打った。朝議の時、恵帝はそのことで、実は自分がそうさせたのでありどうしてそんなことをしたのかと曹参を責めた。曹参は冠を脱ぎ謝罪して、「陛下にはご自分で判断なされまして、聖明英武の点で高帝(高祖)とどちらが上でしょうか」と問うた。恵帝は、自分は高祖におよばないと言った。また曹参は、「陛下は私の能力を見て蕭何とどちらが優れていると思われますか」と問うた。恵帝は、あなたはおよばないだろうと言った。そこで、曹参は「そのとおりでございます。高帝は蕭何とともに天下を平定し法令はすでに明白です。我々はそれを遵守すればよいのです」と言った。恵帝は納得して、休息するようにといった。
曹参の評価

曹参は恵帝5年(紀元前190年)に死去。懿侯の諡を贈られた。人民は、「蕭何は法度を作り、明白でよく整っている。曹参が彼に代わり、遵守して改変しない。その清浄な政治に、民は安らかで一つ」と歌った。以降の漢王朝でも一部例外を除き、「相国」が蕭何と曹参程の功績のものが居ないのでと永久欠番のような扱いになったことからも、後世でも曹参の評価が高いことが窺える。

司馬遷は、「軍事面の功は韓信に従ったおかげ。秦の残酷な政治の後で人民とともに休息し自然にまかせたので天下の人々はみなその徳をたたえた」と評した。
その末裔漢平陽侯曹参の墓(陝西省咸陽市秦都区)

曹参の死後、曹?が継ぎ、呂后時代には御史大夫だった。曹?は呂産クーデターを起こそうとしていることを察知し、陳平らに伝えた結果、クーデターは失敗して呂后一族を漢王朝から引きずり下ろすこととなった。文帝が即位すると、御史大夫を免ぜられ平陽侯となる。曹?の子の曹奇(中国語版)は呉楚七国の乱欒布と共に膠西・?川・膠東軍を破る。曹奇の子の曹時(中国語版)が平陽侯を継ぎ、武帝の姉である平陽公主(中国語版)を娶るが、伝染病に感染し離縁させられ、平陽公主は衛青に嫁ぐ。曹時と平陽公主のあいだの子の曹襄(中国語版)が平陽侯を継ぎ、武帝の娘である衛長公主(中国語版)を娶る。曹襄の子の曹宗(中国語版)が平陽侯を継ぐが、?太子の反乱に連座して爵位を取り上げられる。宣帝の代になり、曹参の功績を残すため曹参の昆孫の曹喜を見つけ、再び平陽侯を継がせた。

後漢末に登場した曹操の実家は、曹参の子孫と自称している。ただし、曹操の祖父の曹騰宦官であり、曹参の同僚である夏侯嬰の子孫の曹嵩を養子に入れて、曹の姓を名乗らせた。
曹参を題材とした作品

楚漢名臣列伝(小説、
宮城谷昌光文藝春秋

脚注^ 裴?の『史記集解』より。
^ 『史記』「楽毅列伝」而樂氏之族有樂瑕公、樂臣公,趙且為秦所滅,亡之齊高密。樂臣公善修黄帝、老子之言,顯聞於齊,稱賢師。 (…) 樂臣公學黄帝、老子,其本師號曰河上丈人,不知其所出。河上丈人教安期生,安期生教毛翕公,毛翕公教樂瑕公,樂瑕公教樂臣公,樂臣公教蓋公。蓋公教於齊高密、膠西,為曹相國師。

参考文献

司馬遷史記』曹相国世家


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