曹丕
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これでこのうえ、広大な度量を加え、公平な誠意をもって努め、徳心を充実させることが出来たならば、古代の賢君もどうして縁遠い存在であっただろうか」と評しており、文学面だけは褒めているものの、婉曲的に『短気で器が小さい、不公平で誠意のない、寡徳、明君とは程遠かった』と示している[12]
『列異伝』に関する考察

曹丕は志怪小説『列異伝』の撰者といわれているが、現行の『列異伝』は『芸文類聚』『水経注』をはじめとする各文献に引用された話を集めた輯本であり、曹丕死後の景初正始甘露年間の話も含まれている。

隋書』経籍志では「列異伝 全三巻、魏文帝撰」とあるが、『旧唐書』では「全三巻、張華撰」となっており、『新唐書』芸文志では「張華撰」とするが、巻数を三巻ではなく一巻とするなど、記録の異同が多い。清の姚振宗『隋書経籍志考証』では「張華が魏文帝に続いて作り、後代の人々が混同したのだろう」としているが査証はない。

もともと「列異伝」という題名自体、誰でも付け得るものであり、『太平御覧』所収の諸文献を比較すると、撰者を記していないケースが多い。撰者名がある場合は、曹丕に次いで張華が多い。そのほかにも呉の胡沖や、西晋皇甫謐の著作として『列異伝』の名前が見える。さらに、こうした類書の場合、著者の正確性をあまり問題にしないことが多い。このため現行の『列異伝』と曹丕の書がどのような関係にあるか、正確にはわからない。

志怪小説の撰者として、曹丕の名が挙げられたことは、彼が怪奇な文学風の持ち主であったことも一因であろう。しかし、古い志怪小説の場合、そこに「怪奇とは天による戒め、前兆である」という思想が前提となっていることも忘れてはならない。有名な『捜神記』にしても、文章の構成としては「ある事件」→「従来の解釈」→「干宝の解釈」のスタイルが全編に見られる。
逸話

曹丕は宝剣を製造した。光は流星にも似ており、「飛景」と名付ける。(『太平御覧』)


長兄の
曹昂が戦死した宛城の戦いでは、当時11歳の曹丕も命の危機にさらされながらも戦わずして逃げる[13]。後に宛城の戦いの当事者の張?が頼み事に赴いた際、曹丕は「お前は私の兄を殺したのに、どうして平気な顔をして会えるのだ」と罵し、これに不安を感じた張?は自殺したと言う[14]


ケ展は戈・殳・戟・酋矛・夷矛の五種類の武器の扱いに通暁していると評判で、また徒手空拳のまま白兵戦に参加できるのだと噂されていた。曹丕もまた撃剣の使い手で、あるとき劉勲・ケ展らと一緒に酒を呑み、ケ展とのあいだで撃剣の議論になった。しばらくして曹丕が「将軍のおっしゃる法は間違っております。余(わたし)はかつてそれを嗜んだことがあり、やはり巧者になりました」と言うので、ケ展は試合することを求めた。そのとき酒宴は酣であったが、ちょうど竿蔗(さとうきび)を酒の肴にしていたのでそれを武器代わりにした。殿を下りて数合ほど打ち合い、曹丕がケ展の臂に三度当てた。左右の者は大笑いした。ケ展は納得がいかず、もう一度手合わせしたいと願った。曹丕は「余の法は厳しく攻め込むものなので面を撃つのが難しい。全部臂に当てたのはそのせいです」と言った。ケ展はなおも一戦交えたいと願った。 ケ展は突きを繰り出して勝負を決めるつもりであったが、曹丕はその手をあらかじめ読んでおり、わざと深く踏み込んだ。ケ展は予定通り、間髪を入れず前進したが、曹丕は身を引いて彼の額を真ん中から叩き切った。座中の面々は驚いて曹丕を眺めた。曹丕は座席に戻ると「余はケ将軍が過去の技術を棄て、改めて奥義を学ばれるよう期待しておりますよ」と言って、笑った[15]


樊城の戦いにて関羽軍の捕虜となっていた于禁が魏に帰還した時、彼を引見した曹丕は慰労した上で、曹操の陵への墓参を勧めた。それに従い于禁が訪れると、そこには『関羽が戦いに勝ち、?徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服した様が描かれていた絵』が掲げられていた。于禁はこれを見ると、面目無さと腹立ちのため病に倒れ、死去した。曹丕は于禁に詞のを与え、于禁は死後までも嘲られたのだった[16]。しかし于禁の子に対しては父の爵を継がせるなどの措置を取っている[17]


その一方、魏に仕官してから日が浅い?徳が魏への忠義に殉じた事を高く評価しており、曹丕が魏王に就いた直後に?徳の墓に使者を遣わして、壮侯のを与え、子の?会ら4名にも爵位を授けている[18]


宗室であり、功臣でもある曹洪に対し、過去に借財を頼んで断られた恨みから皇帝即位後に他の罪を口実に殺そうとした。群臣達は曹洪の赦免を求めたが、救う事ができなかった。また、曹真もこれを諌めたが果たせなかった。結局は卞太后(曹丕の生母)の取り成しによってようやく死罪を免れたが、所領と爵位を削られた。この処置に、曹洪の功績を知る多くの人達は釈然としない思いであったという。(『魏略』)


曹丕が太子だった頃、郭夫人の弟が罪を犯し、鮑がこれを裁いた。曹丕が赦免を請うたが拒否されたため、彼は鮑を恨むようになった。曹丕が即位した後、鮑は「狩猟などの遊びは後回しにされて、まずは内政を整えるべきであります」と常に上奏した。このため曹丕は鮑を煙たがり、上奏文を即座に破り捨てることまでするようになったという。曹丕が呉を討とうとすると、鮑が直諫したため、曹丕はさらに腹を立て、鮑を左遷し治書執法とした。その後、孫?を追求しようとしていた軍営令史の劉曜が罪を犯すと、鮑は劉曜の免職を上奏した。すると劉曜は、鮑が孫?の罪を見逃したことを密かに上奏したという。これに対し曹丕は、鮑を逮捕して廷尉に引き渡すよう命じた。一方、鮑の罪が懲役5年との廷尉からの判断に対し、三官は法律によれば罰金で済むことだと主張したという。しかし、曹丕は激怒し三官以下を逮捕してしまった。その後も、鍾?華?・陳羣といった名臣たちが鮑の父の功績(父は鮑信、曹操の創業を助けた建国の功臣と言ってもよい人物)を持ち出し弁護したが、曹丕は許そうとせず、最終的には私怨で処刑してしまった。鮑の刑死から20日後の5月17日に曹丕が病死したため、鮑を悼まない者はいなかったという。


その一方で、同じく曹操の功臣辛?とは仲が良く、彼の諫言については反発せずに逆に聞き入れる事が多かった。なお、曹丕が太子になった際には辛?に対して喜びの余り肩に抱きついて浮かれすぎるほど喜ぶなど、辛?の娘の辛憲英から曹魏政権の行く末を心配するほど呆れられていた[19]


外出しようとした文帝は、馬を選んで宮中に引き入れさせた。途中で引き入れられてゆく馬を見て、朱建平は人に「この馬の相は、今日死ぬことになっている」と告げた。文帝が馬に乗ろうとすると、馬は帝の衣服にたきこめた香のかおりを嫌って、気が立って文帝の膝にかみついた。ひどく腹を立てた文帝は即座にその馬を殺した。


司馬懿・陳羣・呉質朱鑠(字は彦才)は文帝に寵愛され、「四友」と呼ばれて重職を歴任した。


?統の弟?林の妻は、同軍の習禎の妹であった。曹操が荊州を破ったとき、?林の妻は?林と離ればなれになり、一人で幼い娘を十余年養育した。後年、?林が黄権に従って魏に投降したとき、やっとふたたび親子一緒になることができた。聞き知った曹丕は彼女を賢婦だと思い、寝台・帳・衣服を賜って、その節義を表彰した[20]


甄氏に対する曹丕の寵愛は次第に薄れていき、郭氏や李貴人・陰貴人に移っていった。それを悲嘆した甄氏に死を賜っている。埋葬の際には振り乱した髪で顔を覆われ、口には糠が詰め込まれた。後に郭夫人が皇后に立てられた[21]


曹丕は喪中の曹休の事を大変心配していたとあり、族兄の曹休は母の喪で至孝だった。曹丕は侍中に喪服を奪わせ、曹休に飲酒食肉を無理強いする。曹休は詔を受領したが、ますます憔悴になった。(魏志「諸夏侯曹伝」)


博識で知られていた曹丕の異母弟の曹沖が夭折した時、曹操は曹丕に対し「倉舒(曹沖)の死はわしにとっては大きな悲しみだが、お前にとっては喜びだ。何しろこれでお前がわしの後継者になれるのだからな」と語った。曹丕は即位後に「兄の子脩(曹昂)が生きていても限界があっただろうが、弟の倉舒(曹沖)が生きていたなら私は主となって天下を治められなかっただろう」と述懐し、若くして世を去った兄・曹昂、弟・曹沖に対して劣等感を抱いていた[22]


曹仁が関羽に包囲された時(樊城の戦い)、曹操は曹植を南中郎将とし、征虜将軍を兼務させ、曹仁を救援させようと思い、呼び出して訓戒することがあった。曹植が出発しようとしていたところ、曹丕が酒を持ってきて、出陣へのはなむけと称して曹植にむりやりに飲ませて酔わせてしまい、曹植は命令を受けることができなかった。この迂闊さに曹操は怒った[23]


王忠はかつて、李?の乱による三輔(長安)の混乱で、飢え苦しんで人肉を食した事があった。後に五官中郎将だった曹丕は、曹操・王忠らと共に外出したことがあった。このとき曹丕は、芸人に命じて墓場から髑髏を取って来させ、これを王忠の鞍に括り付けさせた。かつて人肉を食った王忠を、笑い者にしたのである[24]


長水校尉の戴陵が、文帝曹丕がたびたび狩猟に出かけるのを諫言したため怒りを買って処刑されかけたが、減刑されて助かった。


丁儀は文才に優れており、曹操からもその才能を評価され、曹丕の異母姉の清河長公主(曹昂の同母妹)を嫁がせようと考えていた。しかし息子の曹丕に意見を求めた際「丁儀の容貌は斜視(眇=すがめ、片目が小さいこと)なので、そのような醜い男の妻になっても姉上がお気の毒です」と答えたために曹操は気が変わり、最終的に夏侯楙に対し清河公主を嫁に出した。だが後に丁儀が改めて有能だとわかると「やはり娘を丁儀に嫁がせるべきであった」と、曹操は大いに後悔したという(夏侯楙は関中にいた頃多くの娼妓を囲っていたため、結局清河長公主とは不仲となってしまう)。このような経緯もあり、丁儀は曹植を曹操の後継者に推し、曹丕派と曹植派は讒言と詭計で互いを陥れようとしている。220年に曹操が死に、曹植との後継者争いに勝利して王位に即位した曹丕は、報復人事を起こし、丁儀が捕えられて殺されたばかりか、丁一族はすべて誅殺されてしまった。


曹操は後継者問題で悩んでいたとき、楊俊にも意見を求めた。楊俊は曹丕と曹植の優れた点を併せて論じ、どちらか一方に肩入れするコトはなかったが、「敢えて言えば曹植さまの方が立派です」と答え、それを聞いた曹丕はずっと根に持っていた。ある日、曹丕が宛を訪れたとき、市場が繁盛していなかった。これを見た曹丕は怒って、南陽太守だった楊俊を収監した。王象・司馬懿・荀緯らは血が出るまで頭を床に叩きつけて命乞いをしたが、曹丕は決して許そうとしなかった。楊俊は「私は罪をわきまえております」と言って自殺した。


曹丕は弟の任城王曹彰が勇猛であるのを憎んでいた。そこで、母の卞太后の部屋で一緒に碁を打ち、ともにナツメを食べる折、曹丕は毒をナツメのへたの中に入れておいて、自分は食べてもよい物を選んで口にした。曹彰はそれとも知らず、毒のある物、ない物、ともに口にしてしまった。毒が回ってきた曹彰は苦しみだし、卞太后は水を持ってきて手当てをしようとしたが、曹丕はあらかじめ左右に命じてつるべを壊させておいたので、卞太后ははだしで井戸へ走って行ったが、水を汲むことはできなかった。しばらくして、ついに曹彰の息は絶えた。曹丕は、次に東阿王(曹植)を殺そうとした。


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