書経
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劉?の「移太常博士書」に、景帝のとき、魯恭王劉余が孔子の旧宅を壊して宮殿としようとしたところ、壁の中から「古文尚書」を得た。これは「今文尚書」には存在しない16篇を含んでおり、後に孔安国がこれを伝えたが、巫蠱の獄のため普及しなかった、とある(『漢書』楚元王伝)。

それぞれの本の関係は定かではないが、一般には孔子家伝本・中古文本・孔子壁中本が同一であるとされ、一般に前漢の「古文尚書」というと孔安国・劉向・劉?に関わるこの本のことを指す。

前漢の宣帝のとき、劉?が「古文尚書」を学官に立てるよう要求したが、退けられた。この要求は、王莽の時に実現したが、その後、後漢の光武帝のときに再度廃された[16]
後漢の『尚書』受容

後漢においては、「今文尚書」の三家は変わらず学官に立てられ、博士の間で授受された。そのため、代々欧陽氏の学を受けた桓栄桓郁鮑永・鮑c(中国語版)のほか、数多くの学者が「今文尚書」を学んだ[17]

一方、「古文尚書」も徐々に普及し、学者の間で用いられるようになった。前漢と同様、その授受関係ははっきりしておらず、以下の二つの系統がある[18]
徐ツ・劉?門徒の壁中古文本
徐ツが桑欽・賈徽に「古文尚書」を伝え、賈徽が賈逵に伝えると、賈逵は章帝の勅令で『欧陽大小夏侯尚書古文同異』(欧陽氏・大小夏侯氏の「今文尚書」と「古文尚書」の異同を記録した書)を作った(『後漢書』賈逵伝)。また、鄭興・鄭衆も古文を治めたが、この学は劉?に淵源する(『後漢書』鄭興伝)。以下、彼らの学は馬融鄭玄らに受け継がれた。
杜林漆書古文本
杜林は西州にて漆で書かれた「古文尚書」を得た。この本は古文で書かれてはいたが、篇は「今文尚書」と同じ部分しか残っていなかった。杜林本には、衛宏が『古文尚書訓旨』を、徐巡が『古文尚書音』を、賈逵が『古文尚書訓』を、馬融が『古文尚書伝』を、盧植が『尚書章句』を、鄭玄が『古文尚書注』を作った(『後漢書』杜林伝)。

杜林漆書古文本は「今文尚書」と同じ篇しかなく、実際に馬融・鄭玄が作った注釈は「今文尚書」と同じ篇に対してのみ附されている。ここから、杜林本は実際には孔安国に由来する「古文尚書」そのものではなく、伏生以来の「今文尚書」を古文の字体によって書き直したものではないか、という説もある[19]

後漢になり、経学がますます盛んになると、今文を主として研究する博士を中心とする学者と、古文を主として研究する民間を中心とする学者に分かれた。それぞれを今文学・古文学と呼ぶ。今文・古文は、もとは字体の差異によるものであるが、学説にも大きな差異が生じるようになった。今文・古文の対立は『詩経』『春秋』などにも存在するが、「今文尚書」と「古文尚書」の対立はその象徴的なものである。こうした学説の分岐を受けて、章帝建初4年(79年)には、白虎観会議が開催され、白虎通義が編纂されて経義の統一が図られた。また、許慎といった学者は、古文学の立場から『五経異議』を著し、今文説・古文説の学説の相違を整理した[20]

結局、後漢の末期には馬融・鄭玄らの学問が盛んになり、徐々に古文学が発展した。ただし、孔安国由来の逸書16篇を含んだ「古文尚書」は、いつの間にか伝来を絶ち、西晋永嘉の乱の頃に失われてしまった。
偽古文尚書

古文尚書は失われてしまったが、東晋時代の元帝(在位317年 - 323年)の時に豫章内史の梅?(ばいさく)という人物が、「古文尚書」を発見したとして朝廷に献上した[21]。後に偽作であることが判明しているので、現在ではこの『書経』は「偽古文尚書」(ぎこぶんしょうしょ)と呼ばれる[2]

この本は「今文尚書」のうち「舜典」を除く28篇(篇を分けると33篇)と、新出の偽作部分である25篇からなるものであり、合計すると劉?桓譚のいう「古文尚書58篇」の篇数と合致する。また、注釈として孔安国が付され、孔安国の大序と百篇書序が各篇頭につけられているが、これも梅?による偽作であり、現在では「偽孔伝」と呼ばれる。なお、梅?本のうち「今文尚書」と重なる28篇(「舜典」を除く)に関しては、漢代から引き継がれた系統のテキストであり、新たに偽作されたものではない。

梅?本には「舜典」が存在しなかったため、王粛注の「堯典」を二つに分け、後半の「慎徽五典」以下の部分が「舜典」として用いられた。「舜典」には孔伝が存在しないため、王粛注・范寧注が代わりに用いられた。その後、南朝の斉の姚方興がその闕を補う「孔安国伝古文舜典」を献上したが、この本には「慎徽五典」の手前に二十八字が加えられていた[22]

この梅?本は、東晋で学官に立てられ、その後も南朝において継続して受容された[23]。北朝では鄭玄注の『尚書』が用いられていたが、梅?本に注釈をつけた梁の費?(ひかん)の義疏が劉Rによって受容されると、北朝においても広まった。このとき、劉Rは梅?本と姚方興本を合わせた本を用い、このテキストが徐々に広がるようになった。唐の『尚書正義』(『五経正義』の一つ)がこの梅?本と姚方興本を合わせた本を用いたことで、以後はこのテキストの『尚書』が一般的なものとなる[24]
天宝の改字

梅?本は、それに付された尚書序(孔安国作とされた)によれば、古い科斗文隸古定によって改めた字体[25]で書かれていたと考えられる。梅?本は唐の『尚書正義』の材料となったが、天宝3年(744年)、玄宗は古い字体が伝写に誤りが生じやすいとして楷書に改めるよう詔を発し[26][27]、これを受けて衛包が改めた[28]。これを天宝改字あるいは衛包改字と呼ぶ。現在通行のテキストは天宝改字以降のものである。

これ以前の偽古文尚書がうかがえる資料としては、敦煌出土の残巻や、日本に残る唐写本残巻、あるいは後述の日本で書き写された古鈔本がある[29]。これらの資料はその字体の違いから「隷古定尚書」と呼ばれることがある。開成石経以降の刊本を比較すると、単なる文字の置き換えではなく、文章面でも違いがあることが分かっている[30]

小林信明は、現存する古文尚書に見える字体は説文解字三体石経と符合する割合が少なく、むしろ郭夢星『漢書古字類』にみえる漢代の字体に似るとして、唐以前の一般通行の字体と考えた[31]
偽古文尚書への疑い

『書経』に対する文献学的な研究は、特に宋代以後に活発になる。例えば、程頤が金滕篇を、蘇軾が胤征篇・顧命篇を疑った例がある。梅?によって献上された本が偽作ではないかという説は、南宋呉?『書稗伝』によって初めて提唱された。これを承けて、朱熹も書序・孔伝への疑問を示している[32]

その後、梅?本が偽作であることについては、元代呉澄明代の梅?(中国語版)が論証を行った。そして、閻若?が20年の考証の結果を『尚書古文疏証』全八巻にまとめ、25篇は偽古文であると証明した[2]

ただし偽作と考えられている25編についても、吉川幸次郎が「[……]それが僞作であるといふことは、それが何等の意義ももたぬといふことではない。いかにも古代史の資料としては、これは全く無價値のものである。しかし中世以後の社會はこの二十五篇を眞のものと認めて來たのであつて、[……]これらの僞「經」は、或種の學説の根據ともなつてゐる。たとへば「大禹謨」篇の「道心惟微、人心惟危」は宋の「理學」の原理となつた。また「周官」篇は官制に、「胤征」篇は?法に影響を與へてゐる。 」[33]と評するように、一定の価値を認める研究者も少なくない。
内容
構成

現行の『書経』は58篇からなる。この各篇は、@書かれた内容の時代によるもの、A書かれた体裁によるもの、B文献学的見地によるもの、の三つの方法による分類が可能である。
『書経』58篇は時代順に並べられており、時代によって「虞書」「夏書」「商書」「周書」の四つに区別される。

各篇は、その体裁によって「誥」(
君主が臣下に下す訓辞)・「謨」(臣下が君主に述べる訓辞)・「誓」(君主の民衆への宣誓)・「命」(君主による命令の言葉)といった種類に分けられる[34]

『書経』に対する文献学的研究が進むにつれて、現行の『書経』のうちの38篇は、魏晋の頃に「古文尚書」が奏上された際に付加された偽作であることが明らかになった。これを「偽古文尚書」と呼び、漢代以来の各篇を引き継いでいた「今文尚書」と区別する。

篇目

-偽古文尚書今文尚書
虞書1堯典1堯典
2舜典
3大禹謨--
4皋陶謨2皋陶謨
5益稷
夏書6禹貢3禹貢
7甘誓4甘誓
8五子之歌--
9胤征--
商書10湯誓5湯誓
11仲?之誥--
12湯誥--
13伊訓--
14太甲上--
15太甲中--
16太甲下--
17咸有一徳--
18盤庚上6盤庚
19盤庚中
20盤庚下
21説命上--
22説命中--
23説命下--
24高宗?日7高宗?日
25西伯戡黎8西伯戡黎
26微子9微子
周書27泰誓上--
28泰誓中--
29泰誓下--
30牧誓10牧誓
31武成--
32洪範11洪範
33旅?--
34金縢12金縢
35大誥13大誥
36微子之命--


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