書籍
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書誌学」も参照.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}シュメール語が書かれた粘土板(紀元前 2400?2200年)パピルス製の巻物に書かれたエジプトの死者の書オシリス神の姿5世紀ウェルギリウスの著作。著者の肖像も描かれている。15世紀、羊皮紙写本製作の様子。一文字ずつ人の手で書き写す。道具や、部屋の様子などが伺われる(Miracles de Notre Dameより)。コーラン(1100年ごろ)グーテンベルク聖書活版印刷江戸時代に製作された吾妻鏡の研究結果、『吾妻鏡集解』

「書物の歴史」(イリーン著)で人間の本と謡われている通り、古代では人間という生きた本が部族の歴史などを口伝で伝えた。しかし人間社会が発達するにつれ、人の記憶だけでは済まされなくなり、様々な記録媒体が登場するようになった。
起源

メソポタミア粘土板上に記した楔形文字古代エジプトパピルスに書かれたヒエログリフ古代中国亀甲文字や獣骨文字や金石文字、インドなどの木の葉に記した文字、インディアンが使用した彩色したの刻み目や組合せ、インカ帝国キープ(結縄)など、世界各地の文明が発生した場所で様々な書写材料が試みられた。

なお、先に挙げたゲルマン系やラテン系の言葉で「本」に相当する言葉は「木」に関係する語彙が語源となっているので、現在のヨーロッパに当たる場所では古代、木の皮をはぎ、そこに文字を書き写す行為が本の祖形のひとつにもなったと推察される。
中国「目録学」および「中国の書店」も参照

東洋の書籍の書写材料は簡策、絹帛の順に開発された。
簡策(木簡竹簡


代(紀元前17世紀 - 紀元前11世紀)に2本の紐で括られた簡策を意味する「冊」や、机上に置かれた(尊い)冊を表す「典」(『康煕字典』128ページ[書影 1])の存在を記している(s:zh:維基文庫『尚書 : 多士』[注釈 1])。50cm前後に1行10 – 20字を記してなめし皮の紐で編み連ねたものが古くから使用された。この形を冊と呼び、今日、本を1冊、1篇と数えるのはこの当時の名残であると思われる。


竹簡、木牘が廃れたのは4世紀頃までとしている(銭存訓(1990)[書誌 2])。

絹帛


桓公 (斉)紀元前684年 - 紀元前643年在位)が「著之于帛,申之以策」と記した頃から始まり(『晏子春秋』巻7[全文 1])、6世紀頃まで行われた。




105年蔡倫の蔡侯紙(『後漢書』巻78[全文 2])以降、現代まで使用され、書籍とは紙で作成されるという認識が一般的である。

メソポタミアの粘土板文書

メソポタミアを流れるチグリス川ユーフラテス川の下流は粘土質であった為、メソポタミア文明ではその土を厚く板状にし、とがった棒やの先端で楔形文字を刻み、日に乾かしたり火で焼いたりして粘土板文書(clay tablet)を作った。


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