暴力革命
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対比語は平和革命[1]無血革命など。
概要

歴史的に多くの革命は武力や暴力・戦争などを伴った。著名な例には以下がある。清教徒革命(1642-49年)、アメリカ独立戦争(1775-83年)、フランス革命(1789-95年)、ロシア革命(1905/1917年)、辛亥革命(1911年)、ドイツ革命(1918?19)、トルコ革命(1920-23年)などがある[要出典]。

バブーフブオナローティによる陰謀事件ブランキ秘密結社の武装蜂起などは暴力革命論の先駆けであった[1]マルクスエンゲルスは暴力革命論をとり、暴力を新たな社会の生誕を助けるものと考え,暴力による国家解体が新たな生産力水準と生産者の権利の確保につながると主張した[1]ウラジーミル・レーニンも暴力革命不可避論をとり、ボリシェビキによるロシア革命で暴力革命を実行した[1]

ソ連崩壊につながる1989年東欧革命は、ルーマニアアルバニアを除き、平和的な革命として達成された[1]
マルクスとエンゲルス

1848年、マルクスエンゲルス共産党宣言で、民主主義政党と協力するが、革命には暴力的転覆(暴力革命)が必要と記載した[2]。最後に、共産主義者はどこでも、あらゆる国の民主主義政党との同盟と協調に努める。共産主義者は、その見解や目的を隠蔽することを、軽侮する。共産主義者は、彼らの目的は、既存の全社会組織を暴力的転覆することによってのみ達成できることを、公然と宣言する。支配階級をして共産主義革命のまえに戦慄せしめよ! プロレタリアはこの革命によって鉄鎖の他に失う何ものもない。彼らの得るものは全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ!」 ?  共産党宣言

マルクスは『資本論』(1867年)で「暴力は、旧社会が新たな社会をはらんだ時の助産婦である。暴力それ自体が一つの経済的な力である」と述べる[注 1][4]。エンゲルスは「反デューリング論」でこれを援用して、実力こそ革命的方法の革命的方法たる所以であるといい[5]、レーニンも引用している[4]

マルクスは1872年第一インターナショナルでの「ハーグ大会についての演説」では、国や状況によっては平和革命の可能性があるが、大多数の国々では強力(暴力)が必要と主張した。新しい労働の組織をうちたてるためには、労働者はやがては政治権力をにぎらなければならないが、われわれは、この目標に到達するための手段はどこでも同一だと主張したことはない。「われわれは、それぞれの国の制度や風習や伝統を考慮しなければならないことを知っており、アメリカやイギリスのように、そしてもしわれわれがあなたがたの国の制度をもっとよく知っていたならば、おそらくオランダをもそれにつけくわえるであろうが、労働者が平和的な手段によってその目標に到達できる国々があることを、われわれは否定しない。だが、これが正しいとしても、この大陸の大多数の国々では、強力がわれわれの革命のてことならざるをえないことをも、認めなければならない。労働の支配をうちたてるためには、一時的に強力にうったえるほかはないのである。[6]

マルクスの死後、エンゲルスは1895年に「フランスにおける階級闘争 序文」で、普通選挙による合法的な闘争方法を評価した。普通選挙権がこのように有効に利用されるとともに、プロレタリアートのまったく新しい一闘争方法がもちいられはじめ、その方法は急速に発達をした。(中略)ブルジョアジーと政府は、労働者党の非合法活動よりも合法活動をはるかにおそれ、反乱の結果よりも選挙の結果をはるかに多くおそれる、というようになった。そのわけは、この点でも、闘争の条件が、根本的にかわってしまっていたからである。あの旧式な反乱、つまり1848年までどこでも最後の勝敗をきめたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれとなっていた。[7]
レーニン

ウラジーミル・レーニン1902年の『なにをなすべきか?』で、平和革命を認める修正主義を「日和見主義的な経済主義」と批判した。更に1917年の『国家と革命』で、プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能と述べた(暴力革命不可避論)。一 階級対立の非和解性の産物としての国家
被抑圧階級の解放は、暴力革命なしには不可能なばかりでなく、さらに、支配階級によってつくりだされ、この「疎外」を体現している国家権力機関を破壊することなしには不可能である

四 国家の「死滅」と暴力革命
ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と交替するのは、「死滅」によっては不可能であり、それは、通例、暴力革命によってのみ可能である(略)プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしには不可能である。 ? ウラジーミル・レーニン国家と革命』第1章[8]
日本
日本共産党詳細は「日本共産党#1950年問題(分裂、武装闘争路線)」を参照

日本共産党は1950年に所感派国際派に内部分裂したが、両派の暴力革命に関する主張には以下の変遷がある。

第二次世界大戦の敗戦後、主流派(後の所感派)は「米軍解放軍規定・平和革命論」を主張した。しかし 、同年6月に金日成に依頼されて朝鮮戦争開戦した際に韓国陥落させる上で、日本共産党のこの路線が邪魔になると判断したヨシフ・スターリンの意向に沿って、各国共産党の情報交換組織である共産党・労働者党情報局(コミンフォルム)『Communist Information Bureau』は日本共産党批判を行った。所感派はこれに反論したが、日本共産党の友好組織である中国共産党の人民日報による批判を受けると主張の転換を行い[9][10][11][12]、ソ連・中共の指示の下で翌1951年2月に第4回全国協議会を開催して軍事方針を含む行動指針(51年綱領)を採択し、日本国内で武力闘争・暴力革命路線を実施した[10][11][12]

非主流派の国際派は当初は上部組織・国際共産主義運動による「所感派の唱えた米軍解放軍規定・平和革命論」批判に迎合することで、日本における暴力革命を実質支持していたが、徐々に党内主流派である所感派からの左遷・除名処分を受け、所感派の1951年綱領採択後の1951年にはコミンフォルム・中ソ共産党から所感派こそが正統と認められ、国際派は分派認定された[10][11][12]

しかし、日本共産党は世論の支持を失い、1952年の衆議院選挙で議員全員が落選する事態を招くと、国際派は所感派への所業を自己批判して1954年に復党が次第に認められ、更に1956年の第6回全国協議会(六全協)で所感派・国際派双方が党要職を占める和合体制となり、武装闘争路線の放棄を決議した。日本共産党は以後、「所感派に全責任ある、党には責任が無い」とし、「平和革命必然論(平和革命論)」と「武力革命唯一論(1951年綱領)」の両方を誤りとし、敵の出方論をとることなった[11][12]。平和革命論の否定と、敵の出方論をとっている事から、日本政府・公安調査庁は日本共産党が暴力革命を放棄していない(敵の出方論)として、破壊活動防止法に基づく調査対象団体とし続けており、日本共産党はこれを批判している。日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである。 ? 『日本共産党の当面の要求』(1951年綱領)[13]党中央はすでにこの一月、極左冒険主義的な戦術と闘争形態からはっきり手をきる決意をあきらかにした。


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