暴力団
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その構成員などは2023年時点で20,400人、そのうち構成員が10,400人、準構成員が10,000人である[3]。最盛期の1963年には184,100人の構成員と準構成員がいたが、警察捜査暴力団排除条例少子高齢化などの影響で大幅に勢力は減退している[4][3]
呼称

元々「暴力団」は警察が名付けた名称であるが、第二次世界大戦後、マスメディアを通じて一般の間でもその名称で認知されるようになった[5]。警察庁によると、暴力団は従来からの賭博を資金源とする博徒と露天商を資金源とする的屋に、昭和20年代の戦後の日本社会の混乱期に発生した暴力集団である愚連隊が加わり発生した。彼らはヒロポンの密売などの利害関係の対立から離合集散を繰り返したが、昭和30年代には彼らを一括して「暴力団」と呼称することが定着した[4]

関係者は社会的には「構成員」と呼ばれるが、その他にも「ヤクザ」(転じて「ヤーさん」、「ヤー公」、「ヤっちゃん」等)、「極道」、「任侠」、「渡世人」、「本職」等、末端構成員の場合は「チンピラ」、「三下」等と呼ばれる。

暴力団の通俗的な呼び名として「ヤクザ」があり、その語源には多くの説がある。

カルタ賭博追丁株で一番悪い目である「八」「九」「三」の数(いわゆるブタ)から由来するという説

喧嘩などの仲裁を行った「役座」という社会的地位に由来するという説

また暴力団員などが自らを美称する呼び名として「極道」があり、その語源の定説は以下の2つ。

「男の道を極めし者」から

「極道楽」の略で「道楽を極める遊び人」の意

また定説ではないが、元警察官の北芝健は「獄道[注釈 1]」が語源という説を提唱している。

暴力団員などは自身の独自の倫理観として「任侠道」(的屋においては神農道)を掲げ、活動に置いての大義名分に使用される。
歴史と区分

明治時代に入ってから、急速な産業の発展と共に労働力が不足したことによって人手が必要となった。炭鉱水運港湾大規模工事現場には、農村漁村から屈強な男性達が集まってきた。これらの男性達の中から、体力、気力がある男性が兄貴分として中心になり、「組」を作っていった。労働者同士による諍いも多くおこり、警察の手が足りない状況であったため、いわゆる自警団的な役割を持った暴力団組織も結成されるようになっていった。

一方、これら勢力を野放しにする事はできず、1931年(昭和6年)には高橋守雄警視総監1935年(昭和10年)には小栗一雄警視総監の陣頭指揮により東京府内で暴力団、政治結社の構成員らを一斉検挙[7]1935年(昭和10年)の摘発は、東京以外の府県でも警察に加え内務省警保局が協力した大掛かりなものとなり[8]、同年8月末までの全国の検挙者数は19200人を超えた[9]

太平洋戦争終結直後は、日本が連合国に敗北し焦土と化したことで物資が不足し闇市が増えていくことになった。露店を本職としているテキ屋系団体が増えていった原因は、敗戦による日本社会の治安が極めて悪かった事があげられる。その中で、新たに戦後の混乱の中で形成された「愚連隊」(ぐれんたい)などの不良集団から暴力団が誕生することもあった。警察側も急成長する暴力団に対して摘発に乗り出し、警視庁管内だけでも1950年(昭和25年)4月に約5000人、同年7月には約200人と大量検挙(暴力団狩りと表現)を行ったが、多くを釈放せざるを得ず[10]焼け石に水の状態が続いた。

その後、日本の急速な経済復興に伴い沖仲仕芸能興行など合法的な経済活動にのみ従事する「企業舎弟(フロント企業)」も生まれた。現代の暴力団は的屋の系譜を継ぐ団体(的屋系暴力団)、博徒の系譜を継ぐ団体(博徒系暴力団)の両方があるが、明確な区別は建前上でしかなく、様々な非合法活動を行っている。この当時の暴力団は、公然と活動していることが多く、警察との裏取引(いわゆる「お付き合い」)を行ったり、メディアに露出する傾向もあった。

また、バブル景気の影響により、暴力団の勢力が増大した時期(1986年?1991年)があり、その時期の暴力団は全国の地価高騰を背景に、地上げ屋を行っている。その犯罪行為によって億単位の金を手にする暴力団若手幹部が現れたものであった[11][12][13]

1992年暴力団対策法が施行され、暴力団は公然の場で活動がしづらくなり資金獲得活動の変更を迫られ、堂々と組の看板を出して事務所を開くことが難しくなった。また2000年代に入り日本全国の地方自治体で暴力団排除条例の制定が進むと構成員に対する日常生活への規制も進み、構成員と判明した人物は、電力都市ガス水道の使用契約、公営住宅への入居や同居、生活保護児童扶養手当の受給、銀行口座の開設、クレジットカード作成、融資の契約などを拒否されるようになった。2013年に発覚したみずほ銀行暴力団融資事件では、自動車を購入した暴力団員へのローンにかかわったみずほ銀行の会長や頭取らが辞任した[14]。このように、各法と条例で暴力団関係者の基本的人権の侵害が懸念されるほどの規制が行われているが、イタリアのマフィア対策統合法のような暴力団の存在自体の非合法化はなされていない。(#構成員と準構成員であることのデメリット参照)

暴対法と暴力団排除条例の施行、日本社会の少子高齢化の進展により、1960年代に最盛期を迎えた暴力団は勢力の減退を続け、2023年時点で全盛期の約9分の1の構成員数と準構成員数になり、その半数が50代以上と高齢化している。(#構成員と準構成員の年齢構成の変遷(高齢化)参照)

山平重樹によると日本で一番古い系統を持つ組織は指定暴力団・松葉会の二次団体である博徒系の大久保一家だという[15]
組織
組織名

暴力団自身は自らの組織名として、創設者の姓名、発祥地や拠点とする地名などに「」「」「一家」「連合」「連合会」「興業」「総業」などを添えて名乗る場合が多い。江戸時代からほとんどの団体は親から継いだ「一家」を冠し、傘下に「組」を冠する団体を置いていた。明治から昭和にかけて複数の一家が集まった「会」などが現れた。令和の現在も「会」の傘下に「一家」を置き、さらにその傘下に「組」や「興業」を置く団体が多いが最大勢力の山口組に関しては他の暴力団に比べ新興組織であるため例外と言える。傘下団体は企業右翼団体NPO法人のような組織名を掲げ、一般的な団体と装って資金獲得活動に勤しむこともある。
組織構造典型的な一家構成の例

日本のヤクザは通常、親分(組長)に対して弟分と子分が絶対的に服従する家父長制を模した序列的・擬制的血縁関係を構築することで、この関係によって強固な結束を確実なものにする。一般に、盃事と呼ばれる儀式を経ることによって強い絆で結ばれる。組員は、組長から見て弟分(舎弟)と子分の2つに大別される。子分から見て叔父にあたる舎弟の方が序列は上だが、跡目継承権は子分が上である。組長と組員のみの組織を1次団体と呼ぶ。組員がさらに自らを組長とする団体を組織した場合、この団体は2次団体と呼ばれる。2次団体の組員もまた、自らを組長とする3次団体を組織する。組のヒエラルキー構成

これを繰り返すことによって暴力団はピラミッド型の階層構造を形成する。例えば山口組は、5次団体までの存在が確認されている。各階層の団体において、当該組長と盃を交わした組員を直参と言う。暴力団組織においては子分相互の間においても厳格に上下関係があり、「分違い(ぶちがい)」といって暴力団社会における一種の人物的な重みの違い、すなわち「貫目(かんめ)」の違いによって上下的な関係がきまり、兄弟盃(的屋系暴力団では義兄弟盃)と言われる盃事によって擬制の兄弟分となる。

組長が引退・死亡した場合には、組員の中から新たな組長が決められる。個々の組織の状況にもよるが、長男に当たる若頭が選ばれる場合が多い。新たな組長が就任すると、他の組員との間で盃直しと呼ばれる儀式が行われ、新たな序列に基づく擬制的血縁関係が再構築される。先代組長が跡目を指名しなかった場合には、組員同士の話し合いや入れ札(投票)で決められる。


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