暦法
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ヒジュラ暦採用前のアラビア半島では、ユダヤ暦に学んだ太陰太陽暦を用いており、メトン周期として知られる19年7閏法(19太陽年(228ヶ月)の間に、7回、閏月を置閏し、19太陽年とほぼ等しい長さの235朔望月にする方法)に基づき、第13番目の閏月が3年に一度ほど挿入されていた。その太陽暦の部分を切り落としたものがヒジュラ暦である。

太陰暦(純太陰暦)を用いているヒジュラ暦(イスラム暦)においては、1年を平年354日、閏年はこれに1日足した355日の暦法を用いている。平年は30暦日の月と29暦日の月を交互に12か月設置することになっている。太陰年は正確には1年=354.36705日であり、端数に30を掛けるとほぼ11日(11.011日)となるため、30年に11回の割合で閏日を置く。イスラムの暦法では30年周期のどの年に閏日を割り振るかが重要な課題となる。閏日が置かれる場合は、平年では29日であるズー・アル=ヒッジャ月(第12月)が30日となる。

なお、ヒジュラ暦の1年は太陽暦の1年よりも11日程短いために、ヒジュラ暦以外の世界から見ると毎年年始の暦日が早まっているように見える。特にラマダーン月(第9月)は日中の断食を伴うために、その日付を知らずに非イスラム教徒イスラム世界を訪問したときに食事をめぐってトラブルとなる場合がある。

純太陰暦(1年=約354日)では、端数部分を除いて、閏による補正を行わないために、毎年11日早まるので、33年で季節が一巡する。このことから、「33」は陰秘学(オカルト)において非常に重視される数字となっている。
太陰太陽暦の暦法
東洋の暦法「中国暦」も参照

原則的には太陰暦と同じ朔望月29.53日、太陰年354.36705日を用いていたが、農耕に適するように何年かに1回閏月を加えることで調整を行った。

中国において行われたのは、季節を知らせる二十四節気を挿入する方法であった。これは冬至から次の冬至までの太陽年を24等分して1か月に2つの節気が含まれることとした。そのうちその月の節気の前者を「」、後者を「中」あるいは「中気」と呼び、「中気」は暦月に必ず一つ入ることが原則とされていた。「中気」には冬至・大寒・雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪があり、その間隔は30.346日である。ところが、実際の暦月は太陰暦と同様に30日と29日の交互であったために、時々「中気」が暦月に入らない月が出現する。その月を前の月の閏月と規定して正規の月から外して、その次の「中気」を含む月を翌月としたのである。その調整のために高度な計算が必要となり、しばしば改暦が行われることとなった。一方、「節」は暦注を定める際の参考とされ、節から節までの間を「節月」として区切った(「節切り」)。なお、24節気の名称は中国文明の中心とされた華北の季節状況に合わせて設定されており、日本や朝鮮半島、それに中国でも華南の季節状況は何ら勘案されていないことに注意を必要とする。さらに、二十四節気の下には七十二候というものもあった。

また、中国においては「三正」という考え方があり、雨水を、大寒を、冬至を含む月を年始として採用した。これは、他者の暦を用いることは従属の証と考えられたために、前王朝を倒すとその否定のために前王朝と違う「中気」をもつ月を年始と定めたことによる。このため、政権交代のたびに年始が三正の間で移動したが、以後は、夏の制度を用いてただ王朝交代のたびに改暦を行うに留めるようになった。

なお、黄道上における太陽のみかけの動きは冬には早く夏には遅く見える。そのため、太陽が黄道上を15度進んだ期間に応じて節気を進める「定気」という手法も中国の時憲暦から採用された。日本では最後の太陰太陽暦となる天保暦でのみ採用された。
西洋の暦法

新バビロニア(バビロニア歴)・ユダヤ(ユダヤ歴)・古代ギリシアなどの太陰太陽暦は、基本的には東洋のそれと同じであるが、長期的にずれが少なければ良しとして、細かい天象との差異は気にされなかったとされている。これらの国々では黄道十二宮を利用して調整を行った。
太陽暦の暦法
古代太陽暦の暦法

古代エジプトの暦では、古くは、1か月を30日(1週間は10日。1か月は3週間)、1年を12か月(1年を12か月に分ける方法は、月の満ち欠けの周期(1か月)を12.37回繰り返すと1年経つことに由来する)、1年を360日、とする変則的な太陰暦であることから、古代エジプトでも記録に残る以前の時代には、他の地域(文明)と同じく、太陰暦を使っていたと考えられている。

古代エジプトでは紀元前5600年頃に農業が始まり、紀元前3500年頃には灌漑が始まったと考えられている。古代エジプトの農業は、主にナイル川に依存していたため、その氾濫の時期を正確に知る必要があった。

紀元前4000年頃には、エジプト人は、恒星シリウスの観測から、また、ナイル川の毎年の増水開始の時期に注目して次の年の増水開始までの日数を数え上げ、1年が約365日であることを、既に知っていたと考えられており、これがエジプトにおける太陽暦の始まりとされる。しかし厳密には太陽ではなくシリウス(ソティス)や洪水の周期に基づくものなので、これを「ソティス暦」(シリウス・ナイル暦)という。ソティス暦は紀元前4241年、または、紀元前2781年に始まったとする説がある。


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