暗黒舞踏の成立に大きな影響を与えたドイツの表現主義ダンスがある。『マリー・ウィグマン舞踊学校』[7]に留学した江口隆哉、宮操子夫妻が帰国後『江口・宮舞踊研究』を設立し、そこに入所したのが大野一雄である。やがて独立した大野に強い影響を受けた土方巽[8]がそれを「暗黒舞踏」として完成させた。また、若き日の土方巽は前衛芸術集団「ネオ・ダダ」の中心人物・吉村益信の新宿百人町のアトリエ兼住居(新宿ホワイトハウス)に出入りしていたといわれ[9]、暗黒舞踏の成立にもその影響が見られる。
言語だけではなく絵画やオブジェなどから着想を得た作品もある。土方巽は特にフランシス・ベーコンとアンリ・ミショーの絵画から着想を得ることを好んだという。その核心部分の一部は、現在のコンテンポラリーダンスに引き継がれている[6]。
「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)
「ただ身体を使おうというわけにはいかないんですよ。身体には身体の命があるでしょ。心だって持っている」(土方巽)
歴史
暗黒舞踏の舞踏家
土方巽、大野一雄、伊藤ミカ、石井満隆、麿赤兒、笠井叡、白桃房、和栗由紀夫、大駱駝艦、三上賀代、五井輝、川村浪子
舞踏と現代舞踊を融合
勅使川原三郎、佐東利穂子、伊藤キム、河野なつ子、白井剛、鈴木ユキオ、浅井信好、ささらほうさらなど舞踏を消化吸収したコンテンポラリーダンサー
海外SU-EN、リチャード・ハートなど、舞踏第一世代の様式美を受け継いだ者や第二世代の影響下にある舞踏家たちが存在する。
主な舞踏集団
大駱駝艦
山海塾
白虎社
ささらほうさら(女性舞踏集団)
偶成天
フロリダンス
Kokoro Dance(英語版)(カナダの舞踏集団)
極北会(北海道の舞踏集団)
主な舞踏家詳細は「舞踏家」を参照
脚注^ “ ⇒Butoh”. 2020年4月16日閲覧。
^ “ ⇒ハイレッドセンター” (PDF). 2022年11月28日閲覧。
^ アリアドーネの会を主催。裸体で踊ることもあった
^ “暗黒舞踏の世界”. 東京ドキュメンタリー映画祭2022. 2022年11月28日閲覧。
^ 市川雅「舞踏」『別冊太陽 現代演劇60'S?90'S』平凡社
^ 脚注解説:80年代前後のコンテポラリーダンスの世界は、圧倒的にアメリカのポストモダン・ダンスの強い影響下にあった。若いダンサーはマース・カニンガムのスタジオに行って、そこで数カ月、数年間を過ごして、フランスに戻ってくる。ヌーベル・ダンスの最初の世代の人たちはその道を選んだ人たちが多かった。それに対するアンチテーゼ、もしくは正反対のモデルとして日本は出てきた。80年代に入ってからヌーベル・ダンスに舞踏やドイツのダンスシアターの影響が見られるのも、偶然ではないでしょう。(東京大学教授パトリック・ドゥ・ヴォス) ⇒大駱駝艦がであうブラジル、世界がであう舞踏 。をちこちMagazine
^ [1]
^ 石井輝男の東映映画に請われて出演したこともある
^ 解説脚注:ホワイトハウスでは夜な夜な深夜からパーティーをやっていたんです。要するに新宿でごろごろしているアーチストと自称しているヤツらで、誰も作品をつくっていない。そういう連中が集まっていたわけですね。その中には、例えば土方巽とか、いずれは唐十郎もかかわってくる。(磯崎新)「INAX REPORT NO167」(2006年7月号)19ページより
^ 舞台上で裸体で歩き続ける舞踏家
^ 美学校に通った後に、田中みんとも共同作業をおこなった。欧州で活動したあと、新潟県を拠点とする舞踏家
映像
CD-ROM付書籍「土方巽の舞踏―肉体のシュルレアリスム 身体のオントロジー」(川崎市岡本太郎美術館/慶應義塾大学アートセンター・編集)2003、慶應義塾大学出版会
DVD「土方巽 夏の嵐:燔犠大踏鑑」(荒井美三雄・監督)2004、Image Forum & aguerreo Press,Inc