暗黒時代_(古代ギリシア)
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この後、ミケーネでは粗末な集落のみが存在しており、それまでに形成された陶器の技術も失われることになった[9]

ミケーネ文化における再分配システムの中心であった各地の宮殿が焼壊したことにより経済システムは崩壊、この再分配システムに使用されていた線文字Bも不要の長物と化し物資の貯蔵に用いられていた大規模な建築物も消滅することになった。このカタストロフは様々な解釈が存在しておりギリシャ人の一派であるドーリア人の侵入によるもの、地震による崩壊などがあるが、中には暗黒時代の存在を疑問視する声もある。

ミケーネ文化の崩壊には人口の集中過剰、経済の衰退、飢餓、地震、技術の衰退などが考えられているが、現在主流であるのは海から到来してテッサリアを拠点とした略奪者のために崩壊したとする説である。しかし、これも確定に至っておらず崩壊の原因については論争が続いている[7]

また、宮殿は破壊されたうえに火を放たれており、これらの破壊活動は北から南へと進んでいる。しかし、これらの破壊を予測していたと考えられる跡も残っており、ミケーネ、ティリュンスアテナイでは給水設備が設置されていたが、これらは包囲攻撃を予想していたとも考えられている[10]

しかしミケーネ文化が前1200年のカタストロフで一瞬に崩壊したわけではなく、極めて緩やかに衰退を遂げ、その要素は次世代へ受け継がれた。それらを示唆するものとしてアッティカやパレオカストロ (en) などでは宮殿崩壊後に栄えた集落跡が発見されている。また、アッティカやサラミスでの衰退への移行時代については亜ミケーネ文化と呼ばれており、過去にはミケーネ時代末期の変種と見做されていたが、その後、固有の年代幅で存在していたと見做されている[# 2][12]。さらにエジプト西アジアで行なわれた考古学的再評価によってミケーネ文化の崩壊が発生したのを前10世紀半ばにするべきという議論も存在する[13]

また、ミケーネ文化を担ったと思われる人々はエーゲ海に拡散しており、キプロス島ではミケーネ文化の影響が強く感じられるマア・パレオカストロ遺跡などが存在しており、さらにイスラエルアシュドド (en) での調査の結果はペリシテ人が文化の基礎を確立するにあたりミケーネ文化の人々が貢献したことを示唆している[# 3][15]
ドーリア人の侵入エジプト王ラムセス3世と戦う「海の民」

ドーリア人の侵入による説には紀元前13世紀末から始まる「海の民」による移動に伴い、ドーリア人がバルカン半島を南下してギリシャに至ってギリシャ本土南部、ペロポネソス半島クレタ小アジア南西部に定住したことによりミケーネ文化が崩壊、ミケーネ人がアテナイ、小アジアの中部へ移住したとしている[16]。また、別の説ではギリシャ本土はドーリア人の侵入によるもので、小アジア西部ではフリュギア人と「海の民」の侵入があったとしている[17]

この説は主に19世紀に主張されたものであり、古い文献ではドーリア人らの侵入はローマ帝国へ侵入したゲルマン民族のようにミケーネ文化へ浸透、ドーリア人らはアルゴリスラコニヤに定住したとされている[18]

トロイア戦争の80年後、ドーリス人らがヘラクレスの子孫らとともにペロポネソス半島を占領することになった。
トゥキディデス『歴史』[19]

また、古代ギリシャの文献によれば「ヘラクレスの子孫」であるドーリア人らが正統な継承者を主張して南下したとしており、ヘロドトスの『歴史』やトゥキディデスの『歴史』にも記載されている。そのため、過去にはドーリア人が侵入したことにより鉄がギリシャに持ち込まれ器具や武器に革新がもたらされ、さらに土器の様式、葬制の変化(土葬から火葬へ、複葬から個葬へ)などが生まれたとされていた[20]

しかし、この「海の民」については再研究が進み、人口の大移動が発生したことからカタストロフが発生したということは疑問視され、破壊が発生したのは当時の戦術が変化したためとする説が発表されている。また、ドーリア人の移動にしてもキプロスアナトリア沿岸部へミケーネ文化の人々が移動したことにより、空白地と化した南ギリシャへ移動したという説も発表されている[21][22]そして、さらにはドーリア人の侵入すら存在しなかったのではないかとする説まで存在する[23][# 4]

さらにドーリア人以前にアナトリア方面よりインド=ヨーロッパ語族が侵入しており、その後ドーリア人が侵入したとする説が過去に提議されている。これに従えば、鉄器を持ち込んだのが彼らということになるが、調査の結果、ドーリア人もインド・ヨーロッパ語族も鉄器を所有しておらず、さらにインド・ヨーロッパ語族がドーリア人に先立って侵入してたとしても、前1200年以前にはアナトリアで行われていた火葬の習慣が存在しない。このインド・ヨーロッパ語族は正体が不明であり、移動経路、起源、元定住地などは明らかにされていない。そのため、この侵入者は存在しないと指摘する学者も存在する[26]暗黒時代の人々の動き

その他にもドーリア人はミケーネ時代には従属民であったが、暗黒時代において自らがポリスを建設する際に「ヘラクレスの子孫」と称する神話を創造して自らの行為を正当化したという説を主張する少数の学者も存在する[27]

海の民の襲撃やドーリア人の移動によりミケーネ文化が崩壊したとする説は徐々に支持を失いつつある。また、環境の悪化、地震、気候変動による飢饉、社会動乱などを支持する声もあるがこれも必ずしも全面的な支持を受けているわけではない。ただし、何らかの原因を持って宮殿を中心として維持されていた管理経済システムが崩壊したことにより、ミケーネ文化が崩壊したことは大きな支持を受けているが、その過程などについては異論も多い[28][29]

そのため、ヒッタイトの崩壊、古代エジプトにおけるメルエンプタハの在位5年目 (前1208年頃)およびラムセス3世の在位8年目 (前1179年頃) における海の民の襲撃、レヴァントで発見されたフィリスティナ陶器のミケーネ文化の陶器との類似性など東地中海における様々な発見とミケーネ文化崩壊との関連性については未だ答えが出ておらず、考古学者、言語学者、歴史学者などの間で活発な議論が行なわれている[30]
暗黒時代の存在を疑問視する意見

暗黒時代の次代である古典期において聖域とされる場所についてはミケーネ時代後期から末期にかけて使用されていることが発見されている。これがミケーネ時代から連続して利用されたかどうかについては確定はしていないが、キュノルティオンにあるアポロン・マレアタス (en) の聖域ではミケーネ時代に祭儀を行なっていた跡が発見された。さらにフォキスのカラポディにはアポロンアルテミスの神殿が存在したが、ここではミケーネ時代末期の土器が出土している[31]

これらの発見とアッティカで確立している亜ミケーネ文化の文化層がこの地域では発見されていないという理由から暗黒時代という期間を取り除けばミケーネ時代から鉄器時代への連続性を認めることができる状態である。そのため、暗黒時代は人間活動が希薄になった期間を意味するものであり、古代ギリシャが低調になったのは土壌流出や気候変化に人口過剰が伴ったことによるものであるという解釈も成り立っている[32]

ただし、これに対してピーター・ジェイムズ(英語版)は『暗黒の数世紀-旧世界考古学の伝統的な編年への挑戦-』[33]内でエジプト第3中間期における2世紀半の重複に由来して水増しされたことを例にして環東地中海における全域に見られる前1200年から前700年までの間を水増しでしかないとしている。


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