暗殺
[Wikipedia|▼Menu]
マハトマ・ガンディー / 暗殺されたインドの政治家金玉均 / 暗殺された李氏朝鮮の政治家朴正煕 / 暗殺された韓国の政治家原敬 / 暗殺された日本の政治家リンカーン大統領の暗殺を描いた絵画(米国)

暗殺(あんさつ、: assassination)とは、政治的影響力を有する人物を秘密裏に殺害することであり、テロリズム行為の一形態にも分類される[1]。広義では、暴力団抗争など、単なる非合法な殺害行為全般を指す[2]
定義

人を密かに、あるいは不意に襲って殺害することであり[3]、単なる殺人とは異なり、社会に対して影響を与える目的で実行される[1]。必ずしも通常の殺人と暗殺を完全に区別できるものではなく、個人的動機の強い暗殺もありうるが、その場合にも政治的な緊張感の高まりや政治的不安といった要素は共通している[2]。なお、政教一致社会においては、宗教的な理由での暗殺が行われることもあった[4]

また、暗殺のターゲットとなる要人は、国家元首政府首班などが普通であるが、対立政党の党首や財界の指導者などが対象となる場合もある[1]

英語の「assassination」は通常「暗殺」と訳される[5]。assassination は麻薬の一種であるハッシシを飲んだ人を意味するhashsh?sh?nが語源であり、ハサン・サッバーフが部下にハッシシを与えて政府要人を殺害させたことに由来する[2]。なお、ケンブリッジ英英辞書では、assassination は、要人の殺害と定義しており、政治的目的に限定していない[6]が、英語圏の『オックスフォード現代英語辞典(OALD)』および米語圏における『ウェブスター英語辞典』は、特に政治的目的での殺害のことを言うと定義している[7][8]
分類

暗殺には、権力者が加害者側のものと権力者が被害者側のもの、白色テロ赤色テロなど様々な区別がある[2]が、平凡社のマイペディアでは、以下のように分類している[9]

まず、政治権力を持つ者が行う暗殺と、政治権力を持たない者が行う暗殺に大きく分けられる[9]。さらに、前者は、1. 権力者同士が殺し合う場合(例としてガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺)と、2. 権力者が刺客などによって反権力側の要人を殺す場合(例としてレフ・トロツキーの暗殺)に分けられる[9]。後者は、3. 権力を持たない者が権力者を倒す場合(例としてアレクサンドル2世暗殺事件)と、4. 権力を持たない者が反権力側の要人を倒す場合(例として山本宣治の暗殺)に分けられる[9]。このうち、2や4は右翼による左翼の暗殺、3は左翼による右翼の暗殺という形になることが多い[9]
歴史

王の殺害は多くの文化圏で古くから存在しており、暗殺の始まりは政治権力の出現まで遡る[9]。古くは、紀元前336年ピリッポス2世の暗殺や、紀元前44年ガイウス・ユリウス・カエサルの暗殺が著名である[2]。11世紀には、ハサン・サッバーフが暗殺のための秘密結社を作って、次々と要人の暗殺を行い、「Assassination」という単語の語源となった[2]。暴君の暗殺が正当化されるかどうかは、ヨーロッパで近代まで議論の的であった[9]。その後も第一次世界大戦の引き金となったり、各国のクーデターと関わるなど、政治的影響を与えている[2]
暗殺事件の一覧詳細は「暗殺事件の一覧」および「暗殺された人物の一覧」を参照
暗殺未遂事件の一覧

紀元前685年 - 管仲桓公暗殺未遂。

紀元前450年頃 - 豫譲による二度の趙無恤(趙襄子)暗殺未遂。

紀元前227年 - 荊軻による始皇帝暗殺未遂

紀元前218年 - 張良が博浪沙で始皇帝暗殺未遂。

622年 - マッカの有権者達によるムハンマド暗殺未遂事件。

1185年(文治元年10月) - 土佐坊昌俊源頼朝の命により、その弟・源義経を襲撃。

1290年4月19日(正応3年3月) - 浅原事件浅原為頼父子3人が、伏見天皇暗殺のため夜に御所を襲撃したが、女孺の機転で天皇は逃亡。浅原父子はその場で自害した。

1400年 - イングランド王ヘンリー4世暗殺未遂事件。1月の公現祭で実行するはずだったが計画が露見、元エクセター公ジョン・ホランドと元サリー公トマス・ホランドソールズベリー伯ジョン・モンタキュート、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサーら4人が処刑された。

1415年 - サウサンプトンの陰謀事件(英語版)。イングランド王ヘンリー5世を暗殺してマーチ伯エドマンド・モーティマーを即位させる陰謀だったが、マーチ伯がヘンリー5世へ通報したため失敗、ケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラらが処刑された。

1478年4月26日 - パッツィ家の陰謀メディチ家の転覆を狙い、フィレンツェ貴族パッツィ家が起した事件。大聖堂でミサの最中に襲われロレンツォ・デ・メディチは傷を負いながらも難を逃れたが、弟のジュリアーノは凶刃に倒れた。この事件の影には、ローマ教皇シクストゥス4世との関係悪化があり、その後の教皇国ナポリ王国との戦争に発展した。

1570年6月22日(元亀元年5月19日) - 織田信長が甲津畑で狙撃される。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:75 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef