景行天皇
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葦北(同葦北郡)、火国(熊本県)、高来県(長崎県諫早市または佐賀県多久市)を経て玉杵名邑(熊本県玉名市)で津頬という土蜘蛛を誅殺。さらに阿蘇国熊本県阿蘇郡)、御木(福岡県大牟田市)、的邑(いくはのむら、福岡県浮羽郡)へと至った。道中では地名由来説話が多く残されている。

即位19年、9月に還御。なお『古事記』に九州巡幸は一切記されていないが、冒頭の系譜記事で日向の美波迦斯毘売(みはかしびめ)を娶って豊国別王を生んだこと、その子孫は日向国造であることを記している。
日本武尊の活躍詳細は「ヤマトタケル」を参照

即位25年7月から27年2月、武内宿禰東国を視察させて豊かな土地(蝦夷日高見国)を発見する。

即位27年8月、熊襲が再叛。10月に小碓尊(16歳)に命じて熊襲を征討させる。小碓尊は首長の川上梟帥を謀殺して日本武尊の名を得る。翌年に復命。

即位40年8月、大碓皇子に東国の蝦夷を平定するよう命じる。しかし大碓皇子は危険な任務を拒否し美濃国に封じられた。結局、日本武尊が東征に向かうこととなり、途中の伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から草薙剣を授かった。陸奥国に入り、戦わずして蝦夷を平定。日高見国から新治(茨城県真壁郡)・甲斐国酒折宮信濃国を経て尾張国に戻り、宮簀媛(みやずひめ)と結婚。その後近江国に出向くが、胆吹山の荒神に祟られて身体不調になる。日本武尊はそのまま伊勢国に入るが能褒野(のぼの、三重県亀山市)で病篤くなり30歳で崩御、埋葬された後に白鳥となって飛び去った。途中で舞い降りた大和国河内国にも白鳥陵が造られた。出発から三年後のことである。天皇は日本武尊の死を深く嘆き悲しんだ。

即位51年、稚足彦尊を立太子し、武内宿禰を棟梁の臣とした。

即位53年、日本武尊を追慕して東国巡幸に出る。まず伊勢に入り東海を巡って10月に上総国に到着、12月に東国から戻って伊勢に滞在、翌年9月に纒向宮に帰った。

即位55年、伯父である豊城命の孫の彦狭島王東山道十五国の都督とした。しかし任地に向かう途上、春日の穴咋村で亡くなってしまった。そこで翌年に改めて彦狭島王の子の御諸別王を派遣した。

即位58年に近江国に行幸。志賀高穴穂宮に滞在すること3年。『古事記』は天皇の東国巡幸、近江行幸を記していない。志賀高穴穂宮は『古事記』では次代の稚足彦天皇(成務天皇)の都とされている。

即位60年11月、崩御。
系譜
系図

             
     
    10
崇神天皇 彦坐王 

                   
           
豊城入彦命 11 垂仁天皇 丹波道主命 山代之大筒木真若王 

                   
     
上毛野氏
下毛野氏〕 12 景行天皇 倭姫命 迦邇米雷王 

                  
     
    日本武尊 13 成務天皇 息長宿禰王 

                 

    14 仲哀天皇     神功皇后
(仲哀天皇后) 

        

    15 応神天皇

                             
                      
    16 仁徳天皇 菟道稚郎子             稚野毛二派皇子 

                                  
               
    17 履中天皇 18 反正天皇 19 允恭天皇         意富富杼王 忍坂大中姫
(允恭天皇后)

                               
           
    市辺押磐皇子 木梨軽皇子 20 安康天皇 21 雄略天皇     乎非王


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